アッシュは1人だと面倒が勝って、食卓らしきものを用意するより、
栄養剤に頼る事も多かったが、本来ものを食べる事は好きだった。
とりわけ、温かい料理というのは本当に、久しいものだったので、
純粋に嬉しかった。
喋りながらの食事は、行儀が悪かったかもしれないが、それも、
純粋に食事の時間を楽しんでいたからだった。
『誰かと幸福な時間を共有する』
辛うじて、そういった人間らしさだけは、備えているようだった。
ふと、思い出したかのように顔を上げて
時計の針が21時を指している事を確認し
問いかけた
「貴様は食わんのか?
・・・もっともこの後、22時よりの実験を受けるにあたり、
空腹を選ぶか、腹に何か入った状態を選ぶかは、被験者の自由だが」
「ぇ・・・あ、僕の食事は・・・、・・・う・・・っ」
『実験』の時間まであと1時間。
昨日は早々に意識を失ったため、そう酷いことはされなかったが、
(とはいえ、普通の人間なら多分、命は無かったであろうところまで、
痛め付けられはしたようだが)
今日は・・・油断は出来ない・・・。
下手なことをされて、嘔吐やらそれ以上の不始末を、
させられる事があれば。
(さすがにそういったことをさせて、悦ぶ趣味は無いと思いたいけれど、
世間には色々な、特殊嗜好の者がいることくらい、伽藺も知っている)
掃除するのはどうせ自分だ、手間は少ない方がいい。
「お腹・・・空いてないんで・・・」
それは嘘だったが、植物の妖であるゆえ、固形物は摂取せずとも、
ひと月程は生きる事が可能であった。
水分も、よほど大量に摂らない限りは、まとまった形で、
体外に出す必要は無い。
光に当たると反応し、酸素と共に水蒸気として、排出されてゆく。
もっとも昨晩からこっち、様々な形で体液を搾り取られた上、
点滴液を血管に直接注入されていて、勝手が変わっている可能性は、
否めないのだが・・・。
「食事はとらんか。くっく・・・賢明だ」
相手の心の内の不安を、見透かすように、肩を揺らしてアッシュは笑う。
楽しみは後に取っておくために、それ以上その場では何も言わない。
とりあえず伽藺は、『実験』とやらが始まるまで、飲食は控えようと。
小さく心に誓い、「あぁそうだ」と話を、切り替えた。
「ドクターが、お食事している間に、食後のご一服の用意を、
しようと思っていたんです。
蒸すのに、10分少々のお時間がかかりますが、少しお待ち下さいね。
・・・食堂まで、出向いて来て下さっても、宜しいのですが」
「・・・一服? 煙草なら、自室にあるが?」
『蒸す』とは何のことだろう。
アッシュがその疑問を口にする前に、小さく会釈をして伽藺は出て行った。
実験動物が1匹、減っただけ・・・なのだが。
その空間は奇妙に広く、もの哀しく思えた。
(あのモルモットが、思った以上に賑やか過ぎたからだ、きっと)
逃げるはずはない、そう確認した直後だというのに、あの焦燥感がまた、
襲って来そうで。
手早く食卓を空にすると、昼に書き散らした紙片をまた、推敲し始めた。
こういう時は何か、強く興味が持てる文書に、没頭するのが一番いい。
◆
つい、長話をしてしまった。酒種は膨らみ過ぎて、いないだろうか。
ボウルの中を覗き込み、伽藺はほぅと息をついた。
種はなんとか無事だった。
この薄力粉と山芋、清酒で練った酒粕を加えた生地を、薄く延ばして、
小さく丸めておいた餡に巻き付ける。
そのまま蒸し器に入れ、強火で10分ほど蒸すと。
甘い香りと同時に、ふんわりと酒の匂いが広がる。
肉じゃが、味噌汁、漬物、焼き椎茸。甘味を控えた塩味主体の食卓に、
アッシュ医師は喉の渇きを、覚えてきたことだろう。
其処に、絶妙のタイミングで暖かい玉露と、この酒饅頭を出す。
この酒饅頭は餡にも酒粕を加えている。
本来はやらない事なのだが、台所を見る限り普段から、
酒びたりの生活をしてるっぽい彼が、『ほんのりお酒風味』くらいで、
満足するとは思えなかったからだ。
和菓子独特の淡い甘さには、後々慣れて貰うとしよう。
今は『美味い』と思って貰うことの方が重要だ。
付け合せの玉露は、香りの高い上物。
それを50度の低温で、三分間かけて蒸らし淹れる。
喉の渇きに任せて、一気に流し込んでも、充分賞味に耐えうる温度だ。
二煎目からは、70度ほどのお湯で、二分で淹れる。
確かに料理となると、幼少時は女中たちに、旅に出てからも、
式神に頼っていてろくに、作ったことも無かったが。
茶の湯と菓子作りに関しては、かつて小さな店を経営したこともある、
専門家であった。
描いた『絶妙のタイミング』からは、少し遅れてしまったが、
これはこれで焦らす効果になり、良かったかも知れない。
彼には、従兄のような膂力と意志力が、ある訳でもない。
実弟のように鉄壁の防御・治癒力を誇るわけでもない。
『幻』の属性を持つ彼が、今この場所で出来ることは、
千夜一夜物語のシェヘラザードのように、
自分が如何に役に立つか、この医師に知らしめるくらいである。
後宮女の生き方かと嗤われそうだが、其れは其れで構わなかった。
死ねないのなら生きるしかない。
そしてどうせ生きるなら、怯えて泣き暮らして生きるよりも、
自分の住環境くらいは整えて、心地良く過ごす方がいいに、
決まっているのだ。
◆
「お待たせしました、食後のお茶とお菓子ですよ」
医師の部屋に戻り、書類に何やら書き足していたらしい彼の前に、
盆を置く。
蒸したての酒饅頭の湯気が、そのまま立ち昇って彼の鼻腔を、
くすぐるように。
食後の一服といえば、アッシュの常識では、煙草か酒であった。
しかし、持ってきたのは茶だったので、ちょっと不思議そうな顔をする。
茶を飲むという習慣自体、彼はあまり持たないものであった。
喉が渇けば酒を飲む。酒が入らないほうが、好ましい状況下においては、
軽く煮沸した湯冷ましの水を飲む程度だ。
『饅頭』という菓子もあまり食べたことはない。
いつか幼い頃に、使用人から供されたものを、口にした記憶はあるが、
特別に美味いものじゃなかった気がする。
特に、『酒饅頭』などというのは、初めて見るものだった。
酒の香りに魅せられながら、一口食べる
「お口に・・・合いますか?」
ふわりと微笑むと、伽藺も医師の隣に、座った。
「・・・・・。まずくは・・・ない」
美味いと思った、が、やはり言いはしない。
今度は撫でるなどして褒めもしない。
それだけ、素直に美味かったので、反応に困ったのだった。
ほかほかと暖かく、胃に心地良いデザートなど、振舞われたことも無い。
・・・少しの沈黙ののち、ぽつりと呟いた。
「また作れ」
食べ終わると玉露を傾けて目を細める。
身体の芯から温まる。いつもの殺伐とした気分が、嘘のように和らいだ。
これが『幸福感』というものか? 夢見心地に、しばしの間、浸る。
アッシュが満足げに、湯のみを口に運んでいるのを、見ていると。
伽藺も、何ともいえない幸せな気分に、満たされて来た。
彼は『茶』の時間が好きで、それを楽しむ人の顔を見るのも、
好きであった。
◆
そっと目を閉じて、場の香りを感じると、風も吹いていないのに、
伽藺の頭の柳葉がふわふわと揺れる。
ふわ、ふわ、ふわ。
揺れは少しずつ速度を落とし、やがてぴたりと動かなくなった。
続いて、アッシュの耳に、小さな寝息。
・・・・・・。
夢見心地は所詮夢、一時の快楽にすぎない。
伽藺の寝息に、今の時間と自分の本分を、思い出し。
うとうととしていた伽藺に、下膳を命じて部屋から追い出した。
「22時に地下の実験室だ、忘れるな」
鼠の尻尾のように、長くて細い後ろ髪を跳ねさせる背中に、
もう一度強く念を押して。
「遅い」
医師の鼻筋に皺が寄る。
数刻前とは打って変わって、あからさまに機嫌を損ねていた。
外はすっかり暗くなっている。
「逃げたのではないだろうな・・・」
もし本気で伽藺が、医師の元から逃げることを考えていたなら、
先ほど彼が寝ていた間に、逃げていただろう。
冷静に考えればそう判断できても、怒りの感情はそういった理性や、
賢明さを欠如させる。
一度そう考えると、上機嫌に任せて獲物を簡単に外に出した、
己の軽率さえ腹立たしく思えて来た。
それだけ彼は、『怒り』という感情に耐性が無く、短気だった。
医師の苛付きがピークに達しそうな頃合い。
玄関から騒々しい音がして、廊下を駆け抜ける人影があった。
「待て」
褐色の手が、尻尾のように踊る深緑の後ろ髪を、捕まえた。
走っていたところを、後ろに強く引っ張ったため、
伽藺の身体は、そのままずるりと、床の絨毯へとへと倒れ込む。
体勢を整える暇も無ければ、それだけの平衡感覚も敏捷性も、
この樹妖は持ち合わせていなかった。
完全に、背中が床に着地しことを確認すると、医師は、
コートを羽織ったままの肩を、体重を掛けて踏み付けた。
それだけでこの華奢な体は、完全に身動きが封じられる。
「早く帰れ、と、言ったはずだ。
一体何時間かかっている。どこをほっつき歩いていた?」
晩秋の外気で冷えた肩に、ぐりぐりと靴の固さが押し込まれる。
戻って来たと安堵はしたものの、堪った苛々はぶつけてしまわねば、
気が済まない。
ちら、と散乱した買い物袋の中身を、見遣る。
調味料と食材。いくばくかの衣服。その他に・・・。
食材の一種なのだろうか?
正体のわからない包みが、いくつか見当たった。
「やけに大量に買ったものだ。調味料にしては、多い、多過ぎる。
買って来たのは、誰の金だ? ・・・俺の金だな。
それを断りもせず、隠すようにさっさと持っていくとは、
どういうことだ?」
冷たく言い放ちながら、靴先で細く尖った顎を蹴る。
線の細い眉と唇が痛みに歪み、口内に血の味が広がった。
「貴様は礼儀がなってない。・・・調教が必要のようだな?」
しかし、暴行と言えるのかも知れない、医師の叱責は、
その場では比較的速やかに終了した。
大股で立ち去る背中を、柳葉を垂らしつつ見送った。
謝罪を述べようにも、蹴られた拍子に口の中は、切っていたし。
そもそも謝罪は嫌いだと、彼自身が最初に述べていた。
ならば許しを乞う方法は一つ。
散らばった食材を拾い小さく呟く。
「だって、これ、本当に。美味しいんです、・・・から」
◆
この人物と過ごして、まだたったの、一日程度なのだが。
胸の中には確実に、何らかの感情が育っていることに、
伽藺は気が付いていた。
『恐怖』ではない。
彼が、次々と繰り出して来る暴虐が、恐ろしくない訳でも、
無いのだけれど。
彼が求めているのであろう、『畏怖』・・・でもない。
畏怖の対象とするには、何だろう、この人物は天衣無縫だ。
では、かつて『あの子』に感じていたような、『保護欲』?
・・・まさか。
自分などが保護するまでもなく、この人物は生きて行けるだろう。
他者の領分までを侵略しつつ。
そう、そのどれも違う。上手く言葉が見つからないけれど。
力関係を主張したと思ったら、睡眠欲に任せて倒れ込む。
かと思えば、上機嫌で食事をかっ込み、待たせれば激昂する。
これじゃあなんだか、何だか、人というよりも・・・。
◆
夕食の支度は、手早く暖かく。
馴染んだ食材さえあれば、伽藺もそれなりに手が遅い方では、
無かった。
ほっくりと、柔らかく煮たジャガイモと、風味の豊かな牛肉。
人参といんげん豆で、彩りも鮮やかな肉じゃが。
豆腐と大根の味噌汁は、かつお一番出汁がいい香り。
浅漬けの白菜には軽く柚子を刻み。
米は軽く酒を混ぜて、土鍋でふわりと炊いた。
こうして炊くと、風味と甘さ、艶が増す。
あとは炙り焼きの椎茸に、少量のぽん酢を添えて・・・。
よほど、倭食と相性が悪くない限り、この食卓に文句を、
付けることは無いだろう。
盆に盛り付けると、ワゴンで廊下を進み、医師の自室に向かい、
二度、はっきりとしたノックを、響かせた。
部屋に入ると、なるべく殊勝な表情で、アッシュ医師に告げた。
「お買い物が多くなってしまってすみません。
なるべく美味しくて、栄養のあるものを、食べていただきたくて」
それだけを告げると、ワゴンを置いて退室の礼をする。
次は食後の『あれ』だ。
タイミング良く出すためにも、早く拵えなければ・・・。
「ほう」
書き散らしたカルテに再び、目を通すアッシュ医師の表情からは、
もう不機嫌さというものが消えていた。
というか、不機嫌だったこと自体、どうでもよくなっていたようだ。
それより目前に広げられた、珍しい献立の数々に、期待を膨らませる。
「和食というものは、友人に連れられて何度か定食屋などで、
食ったことがあったが。
まさか、自宅で食えるとは、思わなかった」
目の前に配膳された食事からは、
温かくて美味しそうな湯気がたち上っている。
匂いは、食材の風味を損ねることなく、柔らかに漂っている。
何度か嗅いでいるので知っている。
これは『醤油』と『味醂』、それから魚の出汁の匂いだ。
アッシュは通常、薬品や書物の多いこの自室では、
好んで食事を摂らないことにしていた。
そのため、リビングではなく自室に持ってきたことに対して、
まずケチをつけようかと思ったが、この食膳をひっくり返すのは、
少々惜しいように思い。
だから今回は、何も言わないでおくことに、した。
先程の不機嫌は、発散されたことにより、落ち着きを戻していた。
何より獲物は無事に、手元に帰ってきたのだから。
そう考えると、もう少しこの獲物の顔を、眺めたい気分になった。
放し飼いにしても逃げず、清潔な住居と悪くはない食卓を用意する、
怯えて縮こまるのではなく、積極的に話し掛けて来ようともする。
医師は、煩いのは好きではなかったが、懐かれて不快になるほどの、
ひねくれ者でもなかった。
(これは良い拾い物だったろうか)
そう思うと、緊張感のなさを全身で体現したような、この獲物にも、
愛着のような感情が沸いて来る。
「・・・もう行くのか?
どうせすることもないのだろう、食事中の話し相手にでもなれ」
食後の用意を、しに行くなどとは思いもせず、
部屋を去ろうとする伽藺を引き留めた。
少し困った顔をしたようだが、部屋にある椅子の一つに座ったので、
それ以上はアッシュも何も言わなかった。
別に、実験動物の感情がどう動こうが、彼は気にしない。
それどころか、困り顔をするのや、苦しむ様子を見るのは、
むしろ好ましいところだ。
◆
少々慣れない手つきながらも『箸』に手を伸ばす。
一応は不便なく扱えるらしく、 ジャガイモを摘んで口に運ぶ。
「ふむ、出汁がよく染みている。これは何という料理だ?」
これは何だ、これは何だ、と聞きながら、興味深げに食していく。
特別、料理が得意という訳ではない伽藺でも、
やはり、嬉しそうに食べて貰うと、嬉しくなってしまう。
しかも色々と、尋ねて来るものだから、教えたくもなる。
「お肉とジャガイモを、煮込んであるから、
肉じゃがと呼ばれるのです。
ムロマチでは、家庭料理とされてますが、その歴史は浅くて、
元は限られた倭の調味料で、ビーフシチューを作ろうとしたのが、
始まりなんだそうですよ」
そこから始まって、味噌が大豆から出来ていることとか、
浅漬けだけではない、漬物の種類のことなども、話した。
「なるほど。よくものを知っているじゃないか。
料理の仕方に、興味がある訳ではないが、博識な奴は嫌いじゃない。
話し相手としては、合格といっていい」
ぽん、とアッシュが伽藺の頭に手を置き、ぐりぐりと撫でる。
一応は褒めているようだった。
それを受けて伽藺も少し笑顔を見せる。
「ビーフシチューの作り方は、良く存じ上げませんが、
王宮付属の図書館に、料理の本がありましたから、
調べて今度お作りしますね。
和食ばかりでは・・・、飽きが来ますでしょうし・・・」
『今度』の話をして、自分が逃げるつもりは無いことを、
伽藺は暗に示してみた。
その言外の含みに、気が付いたのか、付いていないのか。
少し考えたように箸を止め、緑の樹妖に言い付けた。
「そうだな、明日にはチェスに、付き合え。
軍務に斡旋されるくらいだ、戦略ゲームは苦手ではなかろう」
その誘いは、話し相手になる、と判断されたためだった。
そうでなかったら、やはりこの先も昨日のまま、道具としてしか、
扱いはしないだろう。
天上天下唯我独尊、天は俺の上に人を作らず、を信条とする、
アッシュにとって。
人を、自分の上だったり同等にみるということは、勿論ないとしても、
対象とするその人物に、知恵があると認められれば、
話し相手として、自分と同列に近い位置で、接しようと思える。
『人なつっこい』部分など、勿論彼には欠片も無かったが、
知識欲だけは人一倍あり、また、軽い冗談を交えた会話を愉しむ術も、
知らないわけでは無かった。
「チェス・・・ですか・・・?」
軍人将棋の一種であることは、伽藺も知ってはいるが、
実際にやったことは無い。
「そうですね、教えていただけるなら、喜んで」
『将棋』ならば知っている。郷里では弟を相手に、よく遊んだものだ。
伽藺は、特別強い方でもないが、弱い方でもない。
兵士たちの士気を操ることや、将の判断を狂わせることは得意ではあるが、
駒を効率的に運ぶ方法に、長けているわけではない。
それが、属性『幻』たる所以である。精神のない相手には効かない。
寧ろその技能が高いのは弟の方であった。
彼は駒を『勢力』と見なし、そのルーチンを理解して、捕らえる。
駒に個々の個性は必要とせず、ただ戦力と移動力のみを、問題とする。
伽藺はそんな弟から、王手をたまにしか、取ることは出来なかった。
しかし逆に考えるとすれば、戦略ゲームに長けた相手と、
長く遊んでいたおかげで、それなりの技術は身に付いていると、言える。
ごく普通の、『将棋好き』程度の相手とならば、
いい勝負を展開することが出来るだろう。
もっとも、チェスというゲームについては、全くの未経験なので、
最初はアッシュ医師について、覚えるだけで精一杯になるのだろうが。
光が、点から線へと変じ、白い面が現れる。
かざした手が、窓から差し込む夕日に光るのが、ぼんやりと見えた。
「・・・・・・」
しかし、手に塗られた油膏薬の、違和感より先に。
医師の頭には違うことがよぎった。
がばりと起き上がると、足早に部屋の外に出て、かつかつと廊下を進む。
「はわ!?」
伽藺は古びたモップで廊下の、絨毯のない部分を水拭きしていた。
と、大股に歩いて来る医師の姿に気付き、反射的に立ち上がり直立するが、
視界にも入らいないかのように医師は奥の部屋に入った。
扉を閉める音、そして施錠の音が、大きく響く。
「あぁ、もう少し静かに閉めなくては、お屋敷が傷みますよ。
折角、建て付けがいいのに・・・」
ふと気になって、サイドテーブルの盆を、見に行く。
おにぎりと卵焼きは、そのまま残っていた。
「やはり食べてないか。おにぎりは嫌いなのかな?」
もう少し暖まるもの、例えばお粥などにしてみようか、と思い。
盆を持って台所に戻った。
扉に施錠した医師は、一直線にその正面にある、机へと向かった。
彼はほとんどの部屋を、開けっぱなしにすることが多いが、
自分の部屋だけはきっちり閉めるのは、少ない習慣のひとつであった。
そして、インクの黒へとペンをつけ込むや否や、白い紙片につらつらと、
何かよく分からない文字片を連ねていく。
言語自体はエルフ語のようだが、エルフ語を解さない人物にとっても、
かなり癖のある筆跡というのが判る。
要は、書いた本人にしか判らないような、文字面だった。
診察していた時が、医者の顔だったなら、今は学者の顔だ。
伽藺の声が聴こえてきた気がしたが、そんなことは気にしない。
とはいえ、たった今書いているそれは、伽藺の診察記録、
いわゆるカルテだった。
患者そのものより、患者の記録の方が大事だとは、とんだ笑い話だが、
医師にとっては真剣そのものなのである。
2枚の紙片が、みっしりと埋め尽くされると、やっとペンを置いた。
見比べるように掲げて推敲すると、ふうと大きく溜息を吐きながら、
本棚に整列してあるファイルを、一冊抜き出してその中に入れた。
「腹が減った・・・」
そういえば昨日も今日も、何も口に入れた記憶がない。
昨日は、栄養剤を注射しただろうか? それもあまり覚えていない。
「カラン! 何処をフラフラしている!!
飯を作れと言っただろうが!!!」
自室から出た途端、屋敷中に響くような怒号を上げ、廊下を歩いた。
◆
おにぎりの白米を、たっぷりの水と煮込み。
乾燥貝柱が置いてあったので、出汁と具として解し入れた。
胡麻油があれば良いのだけれど、見当たらないので塩で味付け。
置かれている野菜も、細かく刻んで入れてみると、
薄味のフーリュン風雑炊が出来た。
「浅漬けも出来ているかな」
先程の、『とりあえず』な食卓よりは、随分と形になった気がする。
そのまま、医師が消えた部屋に行き、ノックをしてみたが、
何の応答も帰っては来なかった。
ただ紙に何かを書き付ける、サラサラカリカリという音は、
絶え間なく聞こえてくるのだが。
「冷めてしまいますよー? 仕方がないなぁ、もう・・・」
直ぐに暖め直せるように、粥は鍋に戻すこととして、
伽藺は掃除の続きに移った。
広い廊下、元は良いものだったのだろう、長大な絨毯。
いつか、余裕のある時に洗濯したら、綺麗な模様が現れるだろう。
家事などはあまり、得意とはしなかったが、掃除や洗濯の後の、
布地や家具の、美しい姿が蘇る瞬間が、伽藺は好きだった。
廊下も大体を拭き終わった頃、やっと作業を終えたらしい医師が、
大声で名を呼んでいた。
「はいはい、ただいまー!!」
一食分を盆に乗せて持って行き、姿を現した医師の前に差し出す。
医師は少し驚いた。
逃げはしないだろうと、希望的観測を抱いてはいたものの、
まさかこうも意欲的に家事など行っているとは。
暖かな湯気を上げる食事もだが、廊下の光沢が久し振りに戻っている。
通例では彼によって手酷い、『治療』や『検査』を受けた者は、
逃げ出すかあるいは、怯えきって大人しくしているか、
反撃に出ようとするかと、大体パターンは決まっていた。
しかしこのパターンは初めてだった。
この半妖は、医師の予想をよく分からないところで、裏切る。
(こいつ判っているのか? 自分が殺されかけたことを。
虫けら同然の扱いを受けたことを。
そんなことを、したばかりの相手の、家事雑用を進んでやる?
・・・どういう神経をしているんだ)
真性のマゾヒストなのか、ただ神経が麻痺しているのか。
こうした経験だけは、積んでいる医師であれ、
理解に苦しむところだった。
そんな、新たな興味の芽生えを感じつつも、腹は減る。
「ほう、愚鈍な貴様にしては、手際がいいじゃないか」
食膳をリビングへと運ばせながらも、盆の上から漂ういい匂いに、
空腹中枢が刺激された。
椅子に落ち着くと、一口、また一口と、黙々と粥を食した。
アッシュは性格上、決して正しい意味での、褒め言葉は言わない。
「美味い」と思った時に「美味い」とは言わない。
ただ単なる天の邪鬼の様に、「不味い」と言うわけでもない。
「不味い」というのは、「不味い」と思った時だけに、言う。
だからこうして、黙って食っているならそれは、
美味いという意思表示だった。
その様子が伽藺には少し可愛らしく思えた。
「ところで。これはもうこれで、終わりか?」
ふと見ればもう、皿は空になっていた。
綺麗に片付けられた皿を見て、伽藺は嬉しそうに笑いつつも、
少し困ったような呟きを漏らした。
「お粥は、米から炊かないといけませんので、作るには少々、
時間がかかりますね。
あぁでも、卵焼きくらいなら簡単に、作れますよ?」
「ならばそれでいい。食えれば何でも構わん。すぐに作れ」
「了解致しました」
静かに告げて台所に戻ると、卵といくばくかの野菜とソーセージで、
一品料理を作ってリビングに戻り、医師の前にそっと置いた。
医師は、出された皿の匂いに、また食欲がそそられたのか、
珍しく悪意のない、純粋な意味での笑みを、浮かべた。
睡眠欲を満たし研究欲を満たし、食欲を満たせばそれだけで、
本当に上機嫌になる。
まさにこの医師の精神構造は、動物と同じようなものだった。
歌でも口ずさまんような、機嫌のよさだったが、残念ながら彼には、
音楽への興味がこれっぽっちもなかった。
医師・・・その名が、『アッシュ・クイン』であると、
先ほど知ったばかりなのだが。
空腹を満たそうとする、アッシュ医師の隣で、呼び掛ける。
「ええとあのですねぇ。調味料と食材をいくばくか、それから、
着替える衣服を買いに出たいのですが、構いませんか・・・?」
「調味料と食材、それに服だと?
どうせ家中漁ったのだろうが、それじゃあ足りんのか??」
「ソース類はあるようなのですが、恥ずかしながら何が何なのか、
よく分からないので、醤油や味醂を探しに行こうかと。
もう少し、ましなものもお作り出来ると、思いますよ?」
伽藺も料理は、特別得意という訳ではないが、簡単なものなら、
便宜的にという程度には作れる。
馴染んだ調味料があれば、もう少し手の込んだものが、
作れそうなのだが。
「ソース・・・、ウスターソースのことか?
マヨネーズやケチャップも、総称して言っているのか?
料理にソース類を使わんのか、つくづく貴様おかしな奴だ」
「んー、故郷の料理ではあまり、使うことはありませんでしたね」
「民族や文化の問題か?
そして醤油に、・・・みそ? ・・・が、欲しいと。
よくわからんが、必要なら買ってこい。俺の財布を持って行け」
ぽーん、と高く放り投げた財布を、伽藺が慌ててキャッチする。
非常に稀なことではあるが、この時のアッシュは作業が上手くいき、
更には、美味いものにありつき、精神的にも肉体的にも満たされ、
純粋に機嫌がよかった。
だからすぐに許可は下りた。
「いいだろう。この辺りの地図は正面玄関の辺りに貼ってある。
商店はマークしてあるはずだ。用事が済めば早く戻れ」
「はい」
よほどのことが無い限り、目的の場所と自分の屋敷の往復しか、
この医師はしなかった。
なので他者にもそれを求める部分がある。
伽藺を拾う時、普段は行かない林に、足を踏み入れていたのは、
滅多にない事だったのである。
・・・そこに、彼にとって重要な出会いが、待っていると、
第六感のようなもので、感じ取っていたからのかも、知れないが。
伽藺は外出の許可を得ると、クローゼットの中から比較的、
埃の被っていない、しかし普段から使っている訳でも、なさそうな、
コートを一着取り出した。
肩幅があきらかに違うのか、袖がぶかぶかと余ったので、
軽く一つ折り返して着る。
「お借りしますね。じゃあ、行って来ます」
金の入った財布を預かり、地図で確認した市場へと向かう。
屋外の風は冷たく、冬の訪れを予感させた。
再び屋敷が静寂で包まれる。
ふと立って、リビングに置いてある本棚から一冊、
「拷問全集」なる書物を抜き出すと、愉しそうにページを捲った。
◆
『どういう神経をしているんだ?』
と、医師が不思議に思った事は、実は伽藺の生活暦・・・。
特に出生地の環境を考えれば、納得のいくものだった。
外の世界に出て来てから、つまり17歳から以後の生活でも、
誰かに仕えることの多い日々だったのだが。
彼の出生地は、ムロマチの奥深い山村にある、隠れ里であった。
そこに棲む者の殆どは、妖怪と呼ばれる、異界の魔物を使役する、
魔物召喚士である。
というより、魔物も使役出来なくては、一人前として認められない。
里がそうなった経緯は、おいておくとして、伽藺も例に漏れず、
11の歳に妖狐を捕獲し、使役することとなった。
この妖魔捕獲の儀式は、大人が立会いはするものの、基本的には、
子供本人の力でやり遂げるものとされる。
なので彼らは幼少の頃より、妖魔を支配するにはまず、『勝つ』事。
勝てば支配するし、負ければ支配される。それは当然のこと。
そして支配者には絶対服従。
但し、返り討てる力を持つようになるまでは、といった観念が、
ごくごく常識的なものとして、植え込まれてしまうのだ。
暴虐ともいえる行為にも、反旗を翻さないのは。
単に伽藺自身が、今は反抗したところで、打ち勝てないと、
判断しているからなのかも知れない。
『反抗するほどではない』という、判断の上なのかも知れないが。
少なくとも、支配されている状況でもなるべく、支配者と仲良くし、
日々の生活の苦労を、少なくする術を、選んでいるようだった。
捕獲された妖の殆どが、それを選ぶのと同じように。
奴隷体質と言われれば、そうなのかも知れない。
そして逆に、支配者体質とも言えるのかも、知れない。
彼らの常識には、支配するかされるか、その二択しか無いのだから。
10歳になって少しくらいの頃。
『儀式』で初めて、妖魔の世界を覗いて、伽藺は知った。
妖魔・・・、魑魅魍魎たちの中では、力こそが絶対正義。
連立などは無く、支配と被支配だけで、成り立っていた。
此れこそ、此れこそ、此れこそ。
『儀式』が、成功するまでに、数回の挑戦を行った。
そしてその度に、強く強く確信したのだった。
自分は・・・。
『こちら側の存在』なのだと。
◆
「やっぱり鰹節と鯖節なら、鰹の方が一般向けかなぁ」
倭の食材を探すのは、大変かと思ったが、現在の世界の覇権を、
ムロマチ政権が握っているためか、比較的簡単に揃えることが出来た。
倭服も安くで出ていたので、なるべく質素なものを2~3着と、
肌着・防寒着の類を選ぶ。
防寒着で、少し出費が嵩んでしまったが、まぁ『借金』に、
加算されるのだろう。
「・・・・・・」
無駄遣いかもしれないが。
どうしても、欲しいものがあったので、つい手が伸びる。
怒られるだろうか・・・、でもきっと美味しいし・・・、
ドクターも気に入ると思うけど、でも甘党じゃなかったらどうしよう。
そんなことを考えつつも、出した手は止まらない。
「目が高いねお兄ちゃん! これは今日届いたばっかりの、
最高級の小豆粉だよ!!」
「・・・ですよね」
目が合ってしまってはもう駄目だった。
上新粉、和三盆糖、黒みつ、もち米、寒天と買い込んでしまう。
「ひ、必要経費・・・、だよ・・・ねっ」
自分に言い聞かせながら、帰宅した頃には。
もう空はすっかりと暗くなっていた。
「お・・・お食事作りますねーっ!
肉じゃがにしますよ、肉じゃがーっ!!」
調味料や食材よりも。
和菓子材料類を、多く買い込んだ買い物袋を見られまいと、
伽藺はばたばたと台所に駆け込んだ。
この話は、アッシュ・クイン氏との間で交わした伝言を編集し、SS風味にまとめたものです。
編集・公開に関しては氏に許可をいただき、且つご協力をいただいております。
◆
―目覚めの時。
患者の回復を見届けるのは、医師の務めである。
身体が回復しても昏睡状態であったら意味がない。
意識を取り戻し、しっかりと話せる状態にあるのを、確認するまで、
片時も目を離さず、見守っていなければならない。
伽藺がぱちり、と目を覚ますと。
薄暗い屋敷の窓から、柔らかな灯りが差し込んでいた。
多分この、薄黄色い色彩は、朝陽。
(昨日の最後の記憶が、夕刻頃だから・・・)
起き上がろうとして、引き攣れるような痛みに、気付く。
筋肉痛のように内側から来る痛み。
よく見ると、腕には点滴用の管が繋がれ、体の至るところには、
真新しい包帯が巻かれていた。
病衣からは、清潔な香りがする。
ふと視線を巡らせてみると、静かな・・・感情を伺わせない瞳で、
白衣の男性がじっと見降ろしている。
「俺が判るか」
「・・・・・・?」
長身の伽藺よりも、さらに頭一つほども秀でていそうな、大柄な体。
淡い色彩の髪の下に黒い肌と、さらに深みを増した黒の瞳。
一瞬、誰だろうとシーツを握り、比較的近い記憶を引っ張り出す。
正体は直ぐに知れた。
「ドクター・・・ですね」
そう呼べと伝えられた、というか名前は未だ、知らされていない。
そして医師は静かに頷いた。
(意識は明瞭なようだな)
「すみません、またお世話をお掛けしましたようで、・・・ん?」
汚れきった体は綺麗に清められ、傷も丁寧に治療されている。
しかし、夢だったのかと思ってしまうような、昨夜の惨劇のことを、
無造作に掛けられた襦袢、そこに染み付いた乾いた血液の跡が、
事実なのだと知らしめていた。
「・・・・・・!」
妖だからか何なのか。自身の特性はわかっていた。
強力は再生能力のことも、それにも限界があることも。
「あの。どうして・・・僕を、殺さなかったのですか?
あの状態からでしたら、簡単だったでしょうに・・・」
点滴の管を外さないよう、そっと起き上がると、
医師から少し視線を外して、なるべく平静を装って尋ねる。
「どうして、殺さなかったか、だと?
いいや、貴様は死んだ。
俺に首を絞められ、この腕の中で息絶えたじゃないか。
前の記憶を、引き継いでいるのかもしれんが、貴様は死んだよ。
・・くっくっく・・・・・、走馬灯は楽しかったか?」
一体、この男は何を言わんとしているのか?
伽藺が考える暇もなく、大柄な体に引っ掛けられた白衣が、
翻る。
「貴様は死んだのだ。
だから、俺に拾われる以前のことは、何も思い出す必要も、
気にかける必要もない。
俺の事だけを記憶し、俺の事だけを考えろ」
胸倉を掴んで引きずりあげると、紅く刻印された唇跡の痣を、
指で辿った。
「あ、・・・っ」
腕に走る小さな痛みと共に、血管に挿された針がするりと落ちる。
結局のところ。
それが過去であれ、自分のものを縛る存在がある事が、許せない。
この医師はそういった独占欲を、隠すことを知らなかった。
だから『死んだと思え』という事なのであろう。
細い眉を寄せ、アッシュの言葉に伽藺は、不審そうに首を傾げた。
「それは・・・」
罪を。
罪を犯した歴史を忘れ、其処から逃れてもいいと・・・?
「さあ、回復したのならさっさと起きて、飯を作れ。
これからは貴様の餌くらい自分で用意するんだ。
俺も貴様の監視で空腹だ」
実際、点滴を受けている伽藺より、看病を続けていた医師の方が、
栄養と休養は不足していた。
何かに集中していると、自分の事は等閑になるというのは、
いつまで経っても治らない、この医師の癖であった。
腹が満たされたとしたら、その後にはたっぷりと、眠るであろう。
「まずいものを作ってみろ、貴様の肉を切り取って食った際に、
その回復力が追いつくか試してやる」
「・・・・・・」
◆
きっと。
世間一杯に言えば、酷い扱いを受けていると、言われるのだろう。
なのに・・・体の奥が、じくりと疼くのは、何故だろう。
支配されているのだろうか。自分が『式』を使役するように。
思考を放棄して、この感覚を信じ、従っていいのだろうか。
解放されて。支配されて。思考を放棄して。
でも。
胸騒ぎがする。『何か』が追って来そうな気がする。過去から何かが。
浮かぶ顔、顔、顔。此れは誰だろう、わかる、覚えている。
忘れてなどいない・・・。
『おれのせいだな』『兄上、逃げましたね』『良かったわね、満足かしら』
『居なくならないで下さい』『俺を捨てないで』『働き口が決まったの』
「あ・・・っ・・・?
・・・ああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!!!!!」
不安定な者にとって、激情は一瞬でやって来る。
自分を掴む医師の、白衣の向こうにあるワゴン、そこに置かれている、
消毒液に付けられたメス。
これまでの鈍重な動きからは、信じられないような速さでそれを掴み、
逆手に構えて医師に・・・。
いいや、医師の手の横をすり抜けて、自身の胸にそれを刺した。
何度も何度も、何度も、何度も・・・。
「嫌ぁあ! 駄目・・・なんだっ! 僕は生きちゃ! 生き・・・てちゃ!!
死んだなら、どうしてここに居るの、どうして魂が残っているの!
どうして記憶が残っているの、どうして! どうして!!」
狂ったような咆哮。
続いて、迸る鮮血。
白い手に、握られた白刃が閃くたび、病衣とシーツが紅に染まる。
小振りで鋭利なメスなので、大きな傷口を作ることは無いが。
それでも繰り返し切り付ければ、小さな傷だって広がってゆく・・・。
医師は不愉快そうな表情を浮かべ、自問を繰り返す様を無言で見ている。
白衣に飛んできた血は気にも留めないようだ。
カキィン・・・!!
「あ・・・っ・・・」
激情とは、発散されない感情が、飽和したもの。
それは発散の機会を得れば、呆気ないほど速やかに収まったりもする。
薄いメスが折れ刃先が飛んだ。その事象が伽藺から温度を奪った。
「・・・ぁ・・・」
改めてみてみると、清潔な病衣とシーツは、鮮血に染まり。
医師の白衣にも返り血が飛んでいた。
「・・・・・・」
それでも傷口からは、鈍い痛みが発するだけだ。
じきに血も止まり、跡形もなくなるのだろう。
「・・・・・・。」
のろのろと立ち上がると、シーツを剥がして両手に抱えた。
「すみま・・・せん。洗濯・・・しますね・・・。
あ・・・、・・・その・・・白衣も、した方がいい、です・・・か?」
ぼんやりと生気のない、眠たそうな瞳が戻っている。
激情の間には恐怖と絶望に彩られ、生気を発していた輝ける濃紺は、
今は無気力そうな淀んだ色彩しか有していない。
白衣を洗ったほうがいいのか。その問い掛けに医師は答えない。
「簡単なものしか、作れません、けど・・・。
・・・お待ち・・・、下さい・・・」
抑揚のない声でそれだけ告げると。
シーツを持ったまま、ふらふらと洗濯場の方に、歩いてゆく。
光の無い瞳と、平坦な声音からは、その内心は計り知れない。
激情の後にある、燃え尽き状態なのかも、知れないが。
◆
・・・ガシャン。
医師の蹴りでワゴンが倒れた音だった。
あらゆる医療器具が、床に叩きつけられ、ころころと転がった。
もう一度蹴る。何かの割れた音が、鋭く反響する。
(そうすぐに上手くいくはずもないか)
だとしても、不愉快は不愉快だった。
医師の褐色の口元に覗く、白い歯の間がぎりぎりと軋む。
モルモットが、思い通りにならなかったり、異常をきたすことなどは、
特に珍しいことではなかった。
そもそも、自らの手に堕ちるような輩は、どれも特殊な境遇にある者であり、
元より正気と狂気の境界が、アンバランスな者ばかりであった。
支配することを目的としたこの男が、強い精神力をもった者を選ぶことなど、
今まで一度も無かったからだ。
だから冷静に見ることができる。
またか・・・と。
しかし理性では割り切れたとしても、苛付きはやはり隠すことができない。
彼の自制心は幼少の頃より、大して成長してはいなかった。
「ちっ」と舌打ちを一つすると。シーツの剥がされたベッドに腰を下ろした。
「言葉は選んだ筈だ。最も効果的と思われる、時とシチュエーションで。
・・・・・・。・・・何が悪かった? 時期尚早だったか??」
『過去』を完全に消去する。
そのためには、恐怖、恫喝、脅迫、傷害、思いつく限りのものを全て、
駆使しなければ。
自分だけを見るように・・・。自分だけを『世界』とするように・・・。
それが、畏怖であろうが崇拝であろうが、構わない。
「焦りすぎるのは悪い癖だな。
もう少し時間をかけて、手なづけていかなければならない。
奴には素質がある、諦めるには惜しくなって、きたところだ」
単純に容姿が好みに合うというのも去ることながら。
恐怖の顔、絶望の顔、慟哭の声、その全てが。
医師の嗜虐心、いやその奥にある、何らかの本能に響く。
・・・外科医であれ内科医であれ、医師は必ずある程度の、
精神科医の素質をも持っていなければならない。
人の感情の機微など、理解さえできない彼にとっても、それは例外ではなく。
治療における精神操作の必要性はよく承知していた。
「逃げ出しはしないだろう。壊れもしないだろう、完全には。
恐らくは・・・。・・・そして、・・・いつか・・・。
・・・・・」
ぶつぶつと独り言を呟きながら、疲れに身を任せて、壁に頭を預けていたが、
そのまま浅い眠りに落ちたようだった。
◆
- 『人形』と『人』の境界を抱いたまま。
僕は。どちらに行けば・・・、いいのだろう・・・? -
血の汚れを薄めるために、水を張った桶にシーツを沈めると、
伽藺は力なく崩れ落ちてその脇に座り込んだ。
どのくらい、そうしていたのだろう。
汚れ物を漬け込んだ水が、完全に血の色に染まっていた。
「・・・あ・・・」
自分の着ているものも、血塗れだったことを、伽藺は今更思い出した。
脱いでも構わないが今さらとはいえ、裸で屋敷をうろつくのは気が引ける。
元々彼は同性異性問わず、他者に肌を見せることは、好きではなかった。
それは、生まれ育った社会の、常識のせいでもあるし、
また伽藺自信が、肉体にコンプレックスを、抱いているせいもあった。
「かといって乾いてしまうと、落ちにくくなるしなぁ。
着替えを・・・探さなきゃ・・・」
自分が着ていたものでいいかと思う。
どうせ、あそこまで汚れていたら、もう廃棄するしかないのだし。
とりあえず羽織るにはいいだろう。
部屋に戻ると、倒れたワゴン・・・に、飛び散った医療器具。
硝子瓶はことごとく割れて、揮発したアルコールの匂いが、鼻を突いた。
その横、シーツが剥がされたベッドに、倒れていたのは医師だった。
壁にもたれるように崩折れている。さすがにこの寝方では、体が痛むだろう。
大きな体を何とか横にさせる。
「・・・・・・」
ふとその手を見遣る。あの乱暴な『検査』の最中、気付いたこと。
「作業をすることは多いでしょうに、気を使わなくてはいけませんよ?」
手をそっと握り、かさかさと荒れたそれに、床から拾った軟膏を塗る。
揮発性の薄荷の匂いに薄黄色のクリーム。
これが、グリセリンとカンフル剤から出来た、傷薬であることは、
容易に分かる。
科学薬品は得意ではないが、薬草のことなら少しは、理解出来るつもりだ。
揉み込むように薬を塗り、掛けられている着物一式を、手に取ると。
ワゴンを起こして、落ちたものを拾い、箒で硝子の屑を軽く掃き取った。
そのまま、ごみ捨てついでに洗い場に行き、病衣から倭装に着替えると、
漬け置きの水を変えて台所へと向かった。
あまり、沢山のものは入っていない、貯蔵庫。
米と卵はなんとかあったので、小鍋で炊いた米でおにぎりを作り、
卵焼きを添えた。
あとは、干し魚などがあったので、軽く炙って・・・。
「お醤油が無いのか。お味噌も見当たらないな・・・」
塩を振ることにした。
ソースの類は、いくらかあるようなのだが、どれが何なのか、
いまいち見当が付かない。
「漬物があればいいのだけど」
見当たらなかったので、ようやく見つけた萎れかけた野菜を、
塩水に漬けて重石を載せる。
夕刻までには、浅漬けを作っておこうと、考えたらしい。
「今のところこれでいいか。しばらくは休まれているだろうし、
冷めても食べられるものがいいよね・・・」
部屋に戻って、サイドテーブルに、盆を置く。
簡素な和食だが、これくらいしか作ることも、出来ない。
さて、とりあえず何か着ることが出来るものを、探そうと思った。
病衣ならあるだろうが、歩き回るには少々・・・寒い。
医師の個人的な衣服には、手を触れると怒られそうだから、
何か別のところから探さないといけない。
「となればやっぱり、看護助手の服か何かに、なるのかな」
いわゆる看護士用の白衣ならば、いくらか置いてあるようだった。
中には、信じられないほど破れたものや、血痕で汚れ切っているものも、
多くあったが。
「これにしよう」
どうにか、清潔に保存されているものを選び、袖を通す。
医師が起きたら、食材と衣服を買いに行きたいと、伝えることにしよう。
「此処は本当に何処なのだろう」
ふらりと庭に出た伽藺が、放置され気味の郵便受けから、
医師の名と、屋敷の住所を知ることになるのは、
四半刻ほど後の話であった。
問い掛けに対し、アッシュは直ぐにその解答を、提示はしなかった。
かわりに示されたのは、彼の持論と治療に対する理想。
そして、頭がおかしくなりそうな、しかし興味深い話に充分、
引き込んでから言い放った、質問への答え。
『俺のものになれ』
「・・・は・・・い?」
何故そうなるのか、どこをどうすれば、その結果に行き着くのか。
理解は出来なかったが、とりあえず明確な結果だけは、提示された。
軽く混乱するが、つまり・・・は、うーん・・・?
「えっと、まぁ・・・、はいー・・・?」
聞き返したのだが、承諾と受け取られたかも、知れない。
まぁ、それでも良かった。
実際のところ、誰かに『仕える』ことには、慣れている。
というかどちらかというと、下僕気質に近い彼である。
明確な行動意図を、持つ人物に従うのは、実に嫌いではなかった。
「仕事が、決まっていない訳ではないのですが、まぁ。
時間的な猶予・・・は、あります・・・し・・・」
「貴様に、仕事があるかどうか? それは関係ない。
つまりは金を稼ぐ仕事は、作業として勤しむがいい
貴様のプライベートの、身体を休める時間、風呂に入る時間、
便所に入る時間、寝床に入る時間、それらを俺に捧げろ、
・・・ということだ」
アッシュのご高説は、言語を解さない動物さえ、不気味に感じるものだ。
彼は自分の言動を省みないし、気分が高揚するととりわけ、
周りが見えなくなるのだ。
伽藺もご多分にもれず、たじろいでいた。何しろ完全に寝耳に水である。
しかし惑いながらも、彼に拒絶する様子はなく、むしろ同意に
傾いている様子を見てとって、アッシュは満足そうに頷くのだった。
「くっく・・・仲良くやれそうじゃないか、カラン。
いつも、俺が仲良くやろうとすると、何故か逃げ出すやつも多いのだ。
俺が選ぶ患者はなぁ、・・・あまり手元に残らない」
『残らない』という言葉には、逃げ出すものだけを含む訳では、ない。
それは医師に相応しくない性格と、含みのある言い方が雄弁に語っていた。
「はぁ・・・」
いまいち要領を得ないような返答を返しながら、
やはり覚醒しきっていない、ぼんやりとした思考の中で、
伽藺は考えていた。
約束は守らねばならないゆえ、就くべき仕事は決まっていたが。
確かに『生き甲斐』は、持ってはいないと言える。
個人的な時間というものを、この風変わりな医師に委ねるのも、
悪くはないかも知れない。
どうせ・・・、死んだようにしか、生きられない魂。
少しでも彩りのある方が、楽しいではないか・・・?
◆
かつて自分は、自らの選んだ道を悔やみ、罪を責めて生を呪い、
生命を絶とうと、何度か試みたことがあった。
しかし、そのたびに望みは潰え、何故だか生命は繋がれていた。
一族由来の魔力であったり、妖の血を引く回復力であったり。
龍神の加護であったり・・・これはもう失われたが。
そして自らを、罰しても、罰しても、罰しても。
どんな苦痛にも、たちどころに、その身体は順応していった。
それを心地良いと思うほどに。心が先に病んでしまうほどに。
『俺が選ぶ患者はなぁ、・・あまり手元に残らない』
この医師は。
自分に、逃げ出したいと思うほどの、絶望と苦痛を与えてくれるの
だろうか?
場合によっては死を・・・。
バケモノである自分に、それを与えられると、いうのだろうか。
閉ざされた唇が、うっすらと開いた。
そこから覗く、桜色の薄い舌が、唇を唾液で艶めかせる。
ほんの一瞬だけ見せた妖怪めいた表情。
・・・あなたはボクを 罰シテくれる ・・・ノ?
◆
ふと、伽藺のみせた艶めいた表情に、興味を惹かれた。
その達観したような表情は、それまでのどの患者にも、ないものだった。
しかもそれは一瞬で、束の間の夢のごとく、消え去っていた。
「・・・貴様はあまり、表情を変えないようだ。
よく見れば、ほう・・・なかなか、綺麗な顔をしている。
俺の黒い瞳が怖くはないのか?
それともそれだけ、自分の実力に自信があるのか、・・・いや、
とてもそうは見えないな・・・」
伽藺の顎を摘み、更に続ける。
「何にしろ、表情を変えない奴ほど、その啼き声が愛おしく感じる
ものはない」
返されるのはきょとりとした、やはりどこか無気力そうな、
眠たげな視線。
「・・・怖い? どうしてですか?
貴方は、少し変わった方ですけれど、少なくとも私・・・いえ、
僕を助けて下さいました。
何を怖がる理由が、あるというのでしょう・・・」
公としてではなく、個としての一人称で、気持ちを伝える。
心の読めない、爬虫類めいた、不思議な瞳も。
かつて、龍を宿していた彼からすれば、いっそ安らぎを感じる。
「実力など、何もございません。
唯一、何の準備もなしに仕える技は、幻術のみ。
身体的にも精神的にも、きっととても弱いですよ、・・・僕は」
そう言って浮かべる薄い笑みは、かつてはとある者たちを油断させ。
足元から全てを覆した罪深き微笑。
裏切りの英雄・・・、嘘吐きの聖人・・・。
「・・・まあ、誓約書など面倒なものがなくとも、逃げ出しはしまい?
俺の尊い信頼を、裏切るなよ・・くっくっ」
「はい、ご安心くださいな。
僕には貴方に抗えない、いえ、抗わない理由があります。
ん・・・、何とお呼びすれば宜しいのでしょう。
主様? お館様? ご主人様? 閣下、・・・マスター?」
元の、ぼんやりとした無表情に戻った妖は、今後のための一歩として、
希望の呼称を尋ねた。
一応こう見えても、かつては国王付き執事と、呼ばれた身だ。
「ご主人様などと呼ばれて喜ぶ、低俗な趣味は持ち合わせていない。
ドクターと呼べ。
・・・今日は実に愉快だ」
そうして上機嫌になりながら、伽藺の隣に座るとアッシュは、
血のように赤いワインをあおり出した。
伽藺は少々戸惑いつつ、グラスに再び赤い酒を注いだ。
書簡の内容は覚えている。もうこの際いいだろう。
それよりも今は、この奇妙な医師の動向を、もう少しだけ、
見ておきたいと思っていた。
外見年齢は20歳ほど、実年齢は20代後半。
夫との間に男女の双子あり。
性格はおっとり。
行動は良く言えば優雅、悪く言えばどんくさい。
少し急ぐとすぐ転ぶ。
ネバーランド・ナハリ国の軍務省にも補佐官として所属している。
ユエルティートという名の少女を、小鳥と思い込んでペットとして飼っていたことがあり、
人の姿を現した今でも、娘代わりとして可愛がっている。
義兄にはウィルフェア氏とティーラ氏。氏の家族や同居人諸氏とも懇意で、何かとお世話になっている。
お茶が大好きでお茶菓子も好き。
甘党で大食漢。カロリーコントロールを言い渡されるレベル。