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うつつ世とまどろみの境を泳ぐ、とある妖の手記・・・らしいもの
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かくして数時間、検査結果が出た時には0時が近付こうとしていた。

『歩けない』理由は検査をするまでも無かった。
両足首のくるぶし部分に大きな刀傷があり、腱が完全に切られているのだ。

早期なら手の施しようがあったかも知れないが、かなりの古傷らしくもう手術で繋いでも意味がないかも知れない。
そもそも歩くための筋肉がもう足腰には全く無く、腱だけ繋いだとしても一月程度で自立に持ち込むことは、出来ないと思われる。
偶然の事故で付くような傷ではないから、何らかの処刑的な意味合いで付けられたのだろう。
彼女の狂気や錯乱の遠因のひとつなのだとすれば、示蓮の同族たるムロマチ人にやられたのだろうか。

「償い・・・か」

若かりし日の示蓮は迂闊だったのだろう。
妻を愛する気持ちと、故郷を慕う気持ちが強過ぎて、その二つを出会わせれば何が起こるか、
それを冷静に計算出来なかったのだと思う。
自分なら、と考える。

アッシュなら絶対に顔を合わせることなどさせない。
自分の生まれた家、そこに住まう業の深い一族。欲深く狡猾な祖父や母と。
自分が見つけた最愛の妻、そして共に作り上げた小さな家庭、元気に育っている血を分けた子供たちを。
一同に会させることなどは決してしない。


不意に検査室の扉がノックされ、「お夜食はいりませんか?」と伽藺の声がする。
開けるとチリビーンズを挟んだホットサンドイッチを乗せたトレイを持った妻がいた

「お客様たちと、子供たちはもう、お休みになりました。
貴方もお疲れなのではないですか? 母上を・・・診て下さっていると聞きましたが」

男の姿をしているからか、今の妻は母親よりも父親に似ているようにも見える。
それでも今は、かつて父と同じようにその瞳を染めていた、深い後悔と自嘲の色はないのだが。

「あぁ、・・・そうか」

帰宅してすぐに診察を始めてしまい、食事さえも摂っていなかったことに気付く。
とはいえ熱中すればすぐに時間を忘れるアッシュだ。
伽藺もそこは慣れたもので、彼の作業が一段落したらしいタイミングを見計らって、食事を差し入れに来たのだろう。
簡単な中にも夫への想いが込もったサンドイッチを手にしたアッシュは、
明日も来客の世話をするのだろう妻にお休みのキスを贈ると今度は自室に向かった。


「ふむ・・・」

妻の持ってきた夜食を食みながら、脚を組み肘をついて思案する。
目前には、検査結果を書き付けた書類の束、そして真新しいカルテ。

精密検査まではしていないが簡単な採血・レントゲン・その他の検査結果を眺め見るに。
カテリーンの状態は最初に思った通り、産後の血液循環トラブルによる循環器系全体の疲弊が、原因だったようだ。
特に腎機能は低下しているようで、それに関連して心臓・肝臓・脾臓など、血液循環に関わる機能が劣化したのだろう。
ひょっとすると出産時に細菌感染などがあったのかも知れない。

治療手段がないではないが、根本治療となると地道な体質改善が必要となるため、アッシュが関わるのは難しい。
透析装置のあるしかるべき医療施設で延命しながらの作業になるだろうし、技術レベルが太古文明のままで止まっている彼らの里ではどだい無理な話だ。
さらに強行な手段となると健康な臓器の移植になるだろうがまず、性別も民族も違う夫のものでは適合しないだろう。
一番適合しやすいのは親子兄弟だが、ついて来ている娘二人はまだ子供だ。健康な臓器を摘出するには早過ぎる。

伽藺とはどうやら血液型も同じだし、輸血用に冷凍していた血液を使って実験してみたところ凝固もなかったが、
あれは心身ともにのこらず持って行くとアッシュは決めている。

以上、さて原因はわかったが、治療に入るには時間も材料も足りない。これも見立てた通りだった。
あとは依頼人たる示蓮にどこまでの情報を開示するかだ。

(・・・匙を投げるレベルではない。
元より歩行障害を抱え、眠ること自体を生業とするならば、日常的に運動やストレスに身を曝すことはなく、
多少弱った臓器だとしてもさほどの問題にはならない。
さりとて、例のパニック障害を起こせば、突発的に強いストレスを与えることとなり、それにより弱った臓器が持つかどうかは、定かではない。

当事者以外には情報は開示すべきだ。難病ではないという安堵、しかしなり得るという可能性。
根気をもった原因療法と適切な対症療法。そして、臓器移植という緊急的措置)

状況・物資・体力。さまざまな視点から過程と結果を計算する。

(・・・最後のはあまり勧められはしない。現時点で手術自体に身体が持つのかどうか不安だ。
上手く事を運んだとしても、拒絶反応などに適宜対応できる段取りが、今はないし用意も出来ない。
免疫抑制剤を継続して手に入れられるルートが、見付からなければ意味のないことだ)

現時点で出来そうなことは、手に入る限りでの薬物治療、食事などから体調を整える指導と手伝い、
寝たきりでも出来る最低限の運動の指導、介護器具などを使った能動性の助長。
アッシュが一番得意とする外科的な措置で出来ることはあまり無さそうだった。

ふう、とひとつ息を零し、カルテを書き連ねる。
妻以外のカルテを書くのは数年ぶりだ。
アスピリンやモルヒネ等々の薬剤、ガンや心筋梗塞といった誘発する可能性のある病症とその予防、
・・・・・・。

すらすらとペンを走らせるうちに、・・・ち、と小さく舌打ちを漏らす。
単純なことだ。ストックが足りない。
ほとんどが妻専用と独自の研究用に揃えた薬剤ストックで、手広く、しかも数ヶ月持つ程度には大量に、揃えているわけではない。

普段利用している調達先は近場の薬剤師、そして独自のルートを持つミハイルであった。

「いい機会、か?
・・・今生の別れは短く素っ気ない程度がいい」

思い立つと医師は首を曲げて何度かごきごき言わせ、それから机の隅に置かれた電話の受話器を手に取った。


「俺だが」
『ふぁい』
「緊急で大量の薬剤が必要となった。リストを送るが今何処にいる」
『てゆうか時間考えてくんないかなぁ、、、むにゃむにゃ、いいけどさぁ。。今はねぇ、B邸だよ」
「ではFAXが使えるな」
『にゃんに使うのぉ』
「貴様の知らんことだ」
『へいはい』
「明日何時に来れる?」
『ちょっとまだ受信中だってばぁ、レオンはせっかちだなぁ、・・・けけ』
「ふん」
『・・・ん~と?
ああ、何だかキミにしては、えらく普通だねぇ。。本当に病気治療に使うみたいじゃない。
まぁこんくらいなら、そうだなぁ。・・・明日昼には?』
「分かった、払いはいつも通りだ」
『弾んでねぇ♪』
「ああ」

細かいノイズに荒らされながら響く、かつて聞き慣れた旧友の声。

『そぉいえばレオン』
「ん?」
『こんな、大して危な気のない手配でわざわざボクを呼ぶってのは、今生の別れとかそぉいう感じ?』
「ふん。最期くらい顔を見てやらんこともないというわけだ」
『けけけっ、そうかぁやっぱりねぇ、キミは心中だと思った!
だっていつだって、死にたがってたもんねぇ』
「そういうつもりはない」
『良かったじゃあないか、ボクは親友として嬉しいよ、一緒に死ぬ相手が出来て!
逃げられなかったんだ、奥さん!! ・・・可哀想にねぇえ』
「妻は従うといっている」
『そぉだろぉさぁ、けっけっ果報だねぇ~』
「貴様に言われる筋合いはないが、その通りだ」
『じゃあねぇ、ボク寝るから』
「ああ、明日昼に」

ぴ、と。通話終了のボタンを押すと、魔導力の発動を示すランプが落ちて、室内は再びの静寂を取り戻した。
再開される、カルテにペンを走らせる、掠れた音。

・・・そして夜は明ける。


検査用ベッドで眠っていたカテリーンが目覚めたのを確認して、アッシュは栄養剤の点滴装置を抜き示蓮に彼女を引き渡す。
そして、伽藺に昼前に起こせと伝えると、泥のような眠りについた。
伽藺の今日の午前の予定は、一家の仮住まいとなる借家を探しに行くらしく、
ちょうど帰って来たくらいの時間に起こさせれば充分だった。

それから深い眠りについたらしく、アッシュには全くの記憶が無かった。
妻と共に出ていた義妹が帰宅したらしく、玄関に賑やかな話し声が帰って来たことで、
薄く目が覚めた程度だ。

妻に起こされて、その唇を朝一番の栄養補給だといわんばかりに貪ると、寝汗を落とすためのシャワーを浴びることにした。
暑さのせいかキスの余韻か頬を赤らめた伽藺は今から昼食の支度をするという。
シャワーから上がった頃には食べられるだろう。


「それでナ、おっきなバシャが、トオって行ったヨー!!」

昼食時は街の様子に興奮したカルタの、お出掛けレポートを延々と聞くことになった。
出不精なカルラは同行しなかったようだが、その分、子供たちの面倒を良く見ていたようだ。

カルラは、そのクールフェイスに似合わず可愛いものが好きなようで、
朗らかで素直な子供たちにすっかりと執心したらしい。食事中以外はずっと彼らの側にいた。
まぁ8歳とまだ幼い彼女もまた、世間的に見れば『可愛いもの』に、属するのだろうが。
伽藺の見立てなのか、ごく普通の女児服を身に着けた彼女は、もの静かな雰囲気と相まって人形のように愛らしかった。

カルタは本人の趣味なのか、有名なスポーツブランドの、シャツとパンツを身に着けている。
女性らしさのないスレンダーな体や、真っ黒に焼けた四肢のせいで、まるで成長期に差し掛かる以前の少年のようだ。
黙って歩いていればさぞや、近隣の少女たちが騒ぐだろう。

食後の運動のために近場の狩場はないかと尋ねるカルタに、伽藺は少し考えてから『スペクトラルタワー』と呼ばれる塔と、
『文師のダンジョン』を薦めていた。
初めて聞く探索場の話に、瞳を輝かせてカルタは聞き入っていた。

示蓮とカテリーンにも買って来た服を渡し、今日の外回りの成果を報告していた。
移住準備によって空き家になった家ももう多いようで、さすがに新たな住人を見込めない貸家などは、
ウィークリー状態で貸し出されていた。
それなりの高級施設が揃った住居も、格安(ただし家主も移住するらしく前払い)で貸し出されているので、
その中の近場の一件を借りればどうかと・・・。

「ひと月ほどのことですし、たいした家賃でもないですから、その辺りの段取りは私たちがします」
「そうか・・・。私はこのあたりのことはよく分からないから、良いようにして貰えると有難い」
「ええ、父上は母上のことだけど、考えておいてくださればいいです」
「ふむ。食事の管理はかりんに任せるとして、往診には毎日伺おう。
その上で、最適な治療法や薬剤を、見極めることにする」

自分のことを言われているのかどうなのか、カテリーンはよくわからないようで、首を小さく傾げていた。
それよりも、普段は見ないネバーランド風の洋服が珍しいようで、広げながらきゃいきゃいとはしゃいでいる。

「食事の管理も大丈夫だろう、娘たちもいることだしな。
あまり伽藺の手を煩わせてはいけないだろうから、健康上で留意しなければならない部分だけを、
教えてもらえれば・・・と思う」
「了解した。では基本的には減塩・低蛋白のものにした上で、葉菜類・根菜類を多めに摂って・・・。
ただしカリウムのとり過ぎには気を付けねばならん、調理の際には一度下茹でするのがいいだろう。
・・・まぁその辺りは紙に書いておこう」

クイン家に住みたいとカルタはごねたが、伽藺は『八月の一ヶ月は夫とゆっくり過ごす』と決めたせいか、
それについては首を縦に振らなかった。
柔らかな笑みを浮かべつつも「駄目なんです」と譲らない伽藺。
その決意の固さに、がっくりとうなだれた妹の様子が哀れだったのか、遊びに来る分にはいつでも構わないと、
合鍵を持たせることになった。
ただし来る前には電話で連絡することと、20時を越したら帰ることを条件付けたが。

「この月は基本的には貴殿のことのみに、時間を割くつもりだったようだからな」

示蓮はアッシュに語り掛けながら、静かに息子の姿を眺めている。
愛しい筈の子が選んだ死の運命を彼はどう受け取っているのか。
表情に乏しいその顔からは、答えを伺い知ることは、出来なかった。

「私たちは大丈夫。不治の病では・・・ないと。
根気と努力は必要だが、改善が不可能なものではないと、知ることが出来たから」

やはり表情には乏しいものの、そう呟いて改めてカテリーンの方へと向けた視線は、どこかしら穏やかに見えた。

そして今度は示蓮が、昨日アッシュと約束したことを、家族に伝えた。
概要としては、子供たちは示蓮が後見人として引き取り、成人するまでは何の不自由もさせないと約束する。
家督の相続権は無駄な争いを避けるために放棄としておくが、独立の時には十二分な支度金と出来る限りの援助をする。
子供の育成には手慣れたサーシャとサリアを当たらせ、他の親族たちには必要性がない限り極力関わらせない。
 
最後の一文には娘らが不満の声を漏らしたが、
「財産問題で面倒になりそうな親族ということだ、お前たちは関係ない」という父の説明で納得した。
特にカルラなどは、今後の子供たちとの生活に、随分と夢を抱いていたらしい。
実弟のユノは『跡取り』として、長姉によって特別扱いされているため、おいそれと近寄ることが出来ないらしい。
なので余計に『普通の弟妹』になってくれそうな双子に期待を持つのだろう。

「ナツいテ、クレルだろうウカ?」
「・・・ええ。・・・きっと」

伽藺が腕によりを掛けたスパイシーなカリーとサフランライス、それからタンドールチキンとナンは来訪者たちも、
すっかり気に入ったようであった、。
特に砂トカゲに味が似ているらしいチキンは、カルタの好物の一つになりそうだった。
・・・伽藺は微妙な顔をしていたが。

来客の予定があると聞いてか、食卓はもう一人分余分に用意してあるらしい。
「余計な世話だぞ、かりん」とにべもなくアッシュは言い置いたが、妻はにこにこと笑うままだった。
どうも伽藺はミハイルに対してのアッシュのつれなさを、親しさから来る照れだか何かだと思い込んでいるようだ。

賑やかな会食の時間が終わる。
沈黙を尊ぶアッシュの普段からすれば、少々賑やか過ぎる食卓だが大目に見た。
じっくりと休んで寝が足りたので、気分が良いことも手伝っていた。
さて、旧友が訪ねて来る予定の昼は、もうそろそろという頃だが・・・。


「あら、来られましたね」

チャイムの音に伽藺が顔を上げると、アッシュが無言で席を立ち、玄関に向かった。

「やぁ」

相変わらずな瞳が、日除けの付いた帽子の下から、見上げている。
やけどにただれた半面の中の、光を失ったような・・・それでいて、全てを見通すような薄い色彩。

「ふん」
「部屋にいないから、リビングかと思ってねぇ」

動き易い旅装に包まれた小柄な体が、不躾に屋敷内に上がり込む。

「普通は玄関より来るものだ」
「奥さんにヒミツの調達とかあるだろぅ??」
「馬鹿を言う」
「と、ゆうことはお招きに預かってもいいわけだ」
「あれが、食事の用意をしている」

きょと、と。驚きの表情に彩られる。
その性格的特性と仕事の方向上、ミハイルは招かれざる客として扱われることには慣れていたが、
こう正面きって招かれることは珍しかった。

「へぇ! ボクの? 嬉しいなぁ♪」

一件、純粋に喜んでいるように見える旧友に、激しく不審を感じたアッシュが睨み付ける。

「義父や義母、義妹なども同席している。大人しくしておらんと承知せんぞ?」
「へぇぇぇ・・・♪ なぁんかホントに世も末って感じだねぇ」
「全くだ」

一家の団欒やら、妻の実家との交流。
自分には最も縁のない世界だと、かつてはどちらともが思っていた。

ミハイルは、わからない。
今後、そんなものを得る機会があるのか、無いのか。
孤独を友として暮らすのか、新しくつるむ相手を見付けるのか。
しかしアッシュは得た。

得る可能性の低いだけに、一度得たなら大切にすることだろう。
そういう性質であるのを両人ともが、心のどこかでは認めていたが。
しかし認めたくはなくて、かつては笑い飛ばしていた。

ふと、ミハイルの口元を歪めた笑みが、真顔に変わる。

「・・・キミに会うのは最期なんだろう」
「そうなる」
「ボクがキミに出会って何らかの救いって奴を得たように、
キミがボクに出会って何らかの意義を見出せたろうか?」
「いいや、取り立てて何もない」

表情も、語調も変えず。
言い放つ男の顔を見上げたまま、瞳は見開かれ、閉じ。そしてまた開くと、悪戯っぽく歪んだ。

「けけけ、それでこそレオン」
「ふん」
「じゃあボクからの、せめてもの手向けだ」

小瓶を渡された。
揮発性のある薬剤か、それとも劇薬なのか。
貼り付けてあるラベルに目をやると、ふむ、と、アッシュは一つ頷いた。

「使うか使わんか、分からんぞ?」
「まぁ、上手くいかなかったとき用にでも? けっけ」


暫しの語らいに時間を費やしたのち、食事の後片付けを手早く終えた妻が見に来たことに気付き、
リビングへと戻ることにした。

ミハイルは招きに預かった光栄に、食事もひと段落し歓談している様子の一家へ、
帽子を取ってやや大袈裟な謝辞を表明すると、伽藺に勧められるままに席に着いた。
随分と調子良くおどけて挨拶をしたため、カティやカルタなど女性陣の関心を、一気に引いたようだった。
小さなカルラもおどおどとではあるが、異国の少年(に見えただろう)を興味深そうに見つめ。
赤子たちは言葉がわかっているのかいないのか、くるくる変わる表情や口調にきゃっきゃと喜んでいた。

 唯一、あまり明るく賑やかな場に耐性のなさそうな示蓮だけが、どんな顔をしていいかわからないとばかりに、
頬を引き攣らせていたが。

案内をしてくれた友の愛妻へも、遅れながらの結婚祝いを述べつつ、握手を求める。
伽藺は「いいえ、そんな!」と手と頭を振り。

「結婚式の時には陰から随分と、ご協力下さったと聞いております。
あの余興、旦那様からのプレゼント・・・は私、あまりに嬉しくて泣いてしまって。
・・・『喜ぶと思ったのに何故泣く?』なんて旦那様を困らせてしまいました」

夫のばつの悪そうな視線を受けながら、妻はくすくすと楽しそうに笑っていた。
そして少しだけ残念そうに眉をひそめると、差し出された手を両手でぎゅっと握った。
 
「貴方と私が接触することは、旦那様があまり快く思っていなかったみたいで、
あまり機会を与えていただけませんでしたけれど。
私は状況が許せば、もう少し貴方ともお話したかった、と・・・思っています」

その様子に、アッシュは一瞬、ぎょっとした、が。
・・・この場では口を挟まないことにした。

彼は旧友を熟知しているつもりだったし、だからこそ信用はしても信頼は出来ないでいた。
かつて、『愛しい』もの・・・、いや・・・。
ひょっとすると、愛しいものになったかもしれないもの、・・・を壊された時も。
ミハイルは一見すれば人好きのする笑顔を浮かべ、何の悪意もなく振舞っていたかのように見えた。

しかしそんなこと伽藺は知らない。
お人好しの妻は、気付くどことか危ぶむことさえ、しないだろう。
無用心なわけではないのだろうが、アッシュの旧友ということでどうも、判定を甘くしてしまっているようだ。

今も普通に感動した様子のまま、祝いの言葉に返事を述べている。

「いろいろと、沢山の思いやりを、有り難うございました。
私はわがままで気弱だから、旦那様も理解が及ばなくて、何かと困ることが多かったかと思います。
・・・そういう時にきっとミハイル様の存在は、とても心強かったのではないかと思うのです」

そして客人の耳元に顔を近付けると、
「お口にも態度にも、出さなかったでしょうけれどね。でも心の中では、きっと」と小さく耳打ちした。

またミハイルはリンネやアルクともよく打ち解け、目前で賑やかにされることが嬉しい年頃の子たちに、
きゃっきゃきゃっきゃと喜ばれていた。

「なぁんだ、こんなに可愛い可愛い子どもたちなら、ボクだって快く預かったのにぃ♪」
と戯けてみせるが、アッシュはじろりと一瞥をくれながら、「貴様には指一本触れさせん」と制した。

「そうだ・・・お食事を運ばなければね。今日の食卓はエスニックなんです。辛いものが苦手でなければいいのだけど・・・。
一応、ココナッツミルクも用意していますから、辛過ぎるようなら混ぜて下さいな」

客人が心尽くしの食事に口を付け始めると、アッシュは妻を呼んでそっと厨房に入った。

「かりん、よく消毒しておけ」
「・・・・・・? は、はい、わかりました」

夫のとつぜんの言動に躊躇いながらも、良妻である伽藺はその言葉にしたがった。

「さっき食器を洗ったばかりだから、大丈夫だと思うのだけどな・・・。
・・・は、まさか洗った筈の食器が汚れていたとか、そういうことでしょうか?
なら一緒に、食器も洗い直した方がいいのでしょうか、汚れた手で触ってしまったから・・・」
「いや・・・」

どう説明したものかとアッシュは頭を捻った。妻は他者の悪意を必要以上に気に病む部分がある。
アッシュからすれば、人の個人差や好みの差というものがある以上、
誰にでも好かれることなど無理があると思うのだが、分かっていてもなるべくなら嫌われたくないと思うのが、
妻の性格のようだった。
ミハイルとは多分今後会うことは無いだろうし、わざわざ悲しませるようなことを言う必要も無い。
そう判断するとアッシュは首を振った。

「いや、貴様は綺麗だ。時折、穢すことを躊躇われるくらいに」

ぽっと頬を赤くして妻の、濡れたままの手に接吻ける。

「ただ、ミハイルはどこをほっつき歩いて来たか、分かったものじゃないからな」
「あはは、まさか。旅暮らしをしていることは存じておりますが、所詮人間が行ける程度のところにしか、
足は伸ばさないでしょう?」
「いいや樹妖化した貴様と同じで、鼠が擦り抜ける程度の穴さえ空いていれば、
どのようにしようが入り込んでしまう。そういう部分だけは常識の範囲内では計れない男だ」
「へぇ・・・?」

肩を竦めて苦笑しつつも、それ以上は妻も突っ込んで来なかったので、
アッシュも不必要な言葉を重ねる必要は無くなった。
二人が連れ立ってリビングに戻ると、小食ながらもよそわれた量だけは完食したようで、
もう既に子供たちに囲まれて遊び始めていた。

伽藺の接近に気付くと礼を言い軽く食事の食卓を述べてから、
ミハイルはアッシュに目くばせして階上の部屋に登って行った。

「仕事の取引きの話だ」と言われ、伽藺はそれ以上は深追い出来なかったので、
置いて行かれてつまらなそうな、リンネやアルクそしてカルラを軽くあやしながら、
午後の家事へと戻った。

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自己紹介
HN:
伽藺(カリン)・クイン
性別:
女性
職業:
アッシュ医師の妻/ナハリ軍務補佐官
趣味:
家事、お茶、お喋り
自己紹介:
医師アッシュ・クインの妻である柳の樹妖。
外見年齢は20歳ほど、実年齢は20代後半。
夫との間に男女の双子あり。

性格はおっとり。
行動は良く言えば優雅、悪く言えばどんくさい。
少し急ぐとすぐ転ぶ。
ネバーランド・ナハリ国の軍務省にも補佐官として所属している。

ユエルティートという名の少女を、小鳥と思い込んでペットとして飼っていたことがあり、
人の姿を現した今でも、娘代わりとして可愛がっている。
義兄にはウィルフェア氏とティーラ氏。氏の家族や同居人諸氏とも懇意で、何かとお世話になっている。

お茶が大好きでお茶菓子も好き。
甘党で大食漢。カロリーコントロールを言い渡されるレベル。
来客
[07/10 威紺]
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