このブログ内にある『小噺(SS)』の索引です。
基本的には『伽藺』に関わる話ばかりですが、話によっては本人が全く出てこなかったり、
全く別の人物が主人公であったりします。また、舞台が異大陸のものもあります。
作者は基本的に伽藺PLですが、他の方たちとのリレー文をまとめたものや、
コラボレーションしているものも多くあります。
・柳 伽藺 関係
【蛇柳】(短編/伽藺・柳伽)
この世界で目覚めてしばらくの後。伽藺がナハリに向かうきっかけ。
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【邂逅】(中編/伽藺・アッシュ)
アッシュに拾われた伽藺。その邂逅の瞬間。アッシュPL氏との共作。
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【目覚めの時】(中編/伽藺・アッシュ)
初日の暴虐が事実だったと、血に染まった衣服が物語っていた。
伽藺の選んだ『生きる道』は? アッシュPL氏との共作。
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【帰還の帰結】(中編/伽藺・アッシュ)
ある日、いつものように切り刻んだ伽藺が、意識を取り戻さなかった。
アッシュPL氏との共作。
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【特別なもの】(短編/伽藺・アッシュ)
教えて欲しい。貴方の名前を。アッシュPL氏との共作。
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【ことりと】(中編/伽藺・ユエルティート)
冬に拾った小さな小鳥は、実はただの小鳥ではなくて・・・。
ユエルティートPL氏との共作。
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【14日】(短編/伽藺・アッシュ)
こんな、泣き方をするモルモットなど、今まではいなかった。
『主従』が『恋人』になったその日。アッシュPL氏との共作。
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【深緑茶会事件】(中編/伽藺・威紺)
伽藺を尋ねてやって来た一人の男。しかし当の伽藺の様子が・・・。
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【世界の終焉、その告知の翌日。】(短編/伽藺)
その日、大いなる神は一つの運命を、民人に伝えた。
勿論、彼女にも等しく、告知は与えられた。
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【届く確証のない手紙】(短編/伽藺・威紺)
終焉に激動する世界。そんな中、彼女は再三に渡る男の訪問を受ける。
彼の目的と・・・そして明かされた情報は?
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【世界の終焉と砂漠の姉妹たち】(長編/伽藺・アッシュ・カルタ・カルラ・示蓮・カテリーン・他)
アッシュの決定は下された。
どんな答えになるとしても従う、と決めていた伽藺が蒔いていた、
次世代のための小さな種。
その結果を知らせに来たのは、俊敏な砂漠の少女であった。アッシュPL氏との共作。
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【世界の終焉と妖狩りの里】
・暮蒔の里 関係
伽藺の生まれ故郷は、古えに犯した罪のために、今も罰せられ続けている。
其処に住まう人々の物語。
【水雷】(短編/水竜・雷竜)
双子の竜はそれぞれに違う道を歩もうとした。
これが、罪の始まり。
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【柳妖奇譚】(長編/柳伽・威紺・希鈴・阿今・磨凛・ティーラ・他/未完)
『伽藺』の知らない物語。里で、妖界で。蠢く様々な思惑。
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・青い鳥 関係
(OL大陸『遊雅』を知らない方には、よくわからない話になるかも知れませんが、
撤退済みキャラクターであるため、あえて詳細の説明は設けません)
【眠りを見つめる白い影】(中編/2005年)
樹妖では無かった頃に出会った鳥人の少年。
魂だけの存在となった時、伽藺が『器』を借りたのは・・・。
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【魂の運び手】(長編/2009年)
『カエリタイ』と、心の奥から響く声。
『伽藺』がNLに戻るための物語。そして『遊雅』の撤退RP。
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照明からして薄暗いアッシュの自室の中、机のランプだけが眩しいまでに照っている。
そして頼んでいた品物は、そこにリストと共に、積み上げられていた。
普段から施錠をしている筈のここにどうやって入り込んだのかは、
侵入のエキスパートでもあるミハイルに問うても仕方のない話だ。
アッシュは黙ってリストを手に取り瓶を一つ一つ見定める。
納入の仕方こそ、まだ文句を言う余地はあったが、彼の用意する品物はいつも質がいい。
どのようなルートで手に入れているのかは知らないが。
支払い金額は約束していたものより多少色を付けており、
ミハイルは封筒を開いて額面を確認すると上機嫌に口笛を吹いた。
薬剤師との取引きが終わると、アッシュは速やかに窓の近くに移動し、
頑丈なそれを鎧戸ごときぃと開いた。
薄暗い空間に初めて、爽やかな白昼の光が射す。
「さらばだ」
視線で退出を促すと、「けけけ」といつもの笑いが聞こえて来る。
人の本能を逆撫でする程度には不躾で、しかしそれがかつては心地良かった、
世の全てを拒絶するような嘲笑。
しかし『それ』もふと、素朴で淋しがり屋な、子供の顔になる。
ころころ変わるその表情の、どこまでが演技で素なのかは、アッシュの知ったことでは無いが。
「生まれ変わっても、また友人になってくれる?」
ぽつりと心細げに漏らされた、その言葉への返答は、しかし短く簡潔であった。
「二度と会わんだろう」
「けけけけけ」
普段通りの受け答え、普段通りの二人。
根性の別れとは思えない。これが彼らの流儀。
淋しがる理由もないし必要なんてない。
そもそもアッシュは、転生だとか次の世だとか、そんなものは信じていない。
本当にレオンらしいや、と、ミハイルは頷くと。
ひらりと窓から身を翻し、ふわっと階下に姿を消す。
ここは比較的大きめな洋館の3階。
普通ならば到底着地出来る高さではないが、人並み葉ずれて身軽な彼にとっては、
造作もないことだ。
たん、たんっ・・・と、軽く壁を蹴る音が聴こえると、ざざんと木の葉の揺れる気配。
そして医師の自室は改めて普段の静寂を取り戻した。
◆
カツカツと足音を立てて、家主が自室より降りて来る。
連れがもう見当たらないことについては、伽藺は庭全体に張り巡らせていた、
草木を介した情報網からわかっていたので、何も尋ねなかった。
「大量に薬を入手したぞ? 処方の準備にかかる」
それが何を意味するかは、示蓮にはすぐに理解出来たようだった。
まだ衣服の山から、離れ難そうにしているカテリーンを抱き、医師が指示する処置室へと向かった。
階上に上がる前に伽藺に向き直り、アッシュがぼそりとその耳に囁く。
「これで暫しは義母上の身も保つだろう。少なくともそれなりの医療機関を探す時間くらいはな。
さすれば貴様の両親への俺からの義理は済む。
・・・巫女だとかなんとか、そういう重責から開放されるだけで、寿命も長らうように思うがな。
あとは義父上が義理堅い人物であるということを願うばかりだ」
妻の頬にキスをしながら、懐に忍ばせた友の贈り物、強い毒性のある昏倒剤に、想いを馳せる。
そのキスを瞳を閉じて受けながら、
「ええ。人の・・・しかも常人よりも弱い身でありながら、信仰と崇拝の対象となる。
それはとても、辛いことなのかも、知れませんね」
すくすくと、長身に育った伽藺とは対照的なほど、小さなか細い体の母親を思う。
「『一個の人格』として扱って貰えない部分。
その点に関して言えば、崇拝は侮蔑に似ているのかも知れません、ね」
小さく零す妻。
その言葉にアッシュは、クク、と、楽しげに口の端を上げる。
「崇拝は侮蔑に似ている、とは。貴様にしては興味深いことをいうではないか」
アッシュやミハイルに比べて、伽藺が皮肉めいた揶揄を口にすることは、あまり多くない。
だからこそときたま紡がれるその言葉に、彼はいつも興味をそそられるのだ。
「確かに結局のところ、平凡が最も幸福なのだ。
或いは平凡であれ安易というものはなく、幸福を掴むには等しく苦労があるのか。
・・・俺には分からんが」
アッシュは今この瞬間が幸福だとは思っているが、それを掴むために特に努力をした覚えはない。
確かにそれなりのアクションは起こして来たが、その時々で自分の欲求に忠実に動いてみたとか、
トラブルに相対してみたというくらいの覚えしか無い。
ただ妻が今でもそばにいて、こうして尽くしてくれているということは、
節目節目で本能のままに選んだ選択肢が、大きく間違ってはいなかったことを、
証明しているのだろう。
だから彼が何か今までの人生で努力をしたとすれば、
『努力はしない』主義をほんの少し曲げて、妻が喜ぶ『かもしれない』ことを試みてみた。
ただその一点に尽きたのかも知れない。
「貴方の診断次第でしょうが、両親は多分どこか医療の発達した土地を見付けて、
すばらくは普通の一般人として療養生活に入ることでしょう。
・・・すみません、貴方は関係がないのに、お手を煩わせてしまって」
困ったような顔をしながらも、どこかしら少し嬉しそうに伽藺が笑う。
やはり、手放しで素直になれない相手とはいえ、両親は幸せになって貰いたいらしい。
これについてもアッシュからすれば努力や献身のつもりはなく。
ただ単に、もし妻が医療の心得を持っていれば、こうするだろうかと思ってみたことと、
取引きの条件に価値があると見做したから乗ってみただけの話だった。
「俺は関係がないのか? 寂しいことを言う」
妻を片手で抱き竦め、今度はその唇にキスをする。
「かりん、俺は貴様の一部だ。
貴様は俺を、貴様の力量や能力の一部としてカウントしていい。
俺にできることは貴様にできることだ。
・・・それがパートナーというものだろう?」
建前や綺麗事ではなく。
今、素直にそう思っている。伽藺が望むことで自分に出来ることなら、
いくらでも自分を使ってもらいたい。
自分の元を離れたいという、心の死刑宣告に似た裏切り以外なら、
何であっても自分を頼ってくれて構わないのだ。
幼き頃から、理由もわからず積み重ねてきた心身の頑健さや知識や人脈は、
きっとその為のものだったのだと今では思えるから。
「だって私の家族のことなのに、本当は私がやらないといけないことばかりなのに、
貴方を巻き込んで貴方にばかり何かをさせて。・・・申し訳ないなって。
でもそうでしたね。私は貴方のもので、貴方は私のもの。
半身同士なのだから互いのために動くのは当然でしたよね」
肩を竦めて舌を出すと、夫にひときわ濃厚なキスを返した。
アッシュもようやっと納得した顔で、その大きな体を階段に向けて翻す。
「では、あまり待たせるのも何だから、診察に行ってくる。
そのまま処置に入ることもあるだろうから、少し時間が掛かるかとは思うが」
「はい、お願い致しますね、貴方」
深々と頭を下げて、伽藺が夫を送り出した。
そして背後から注がれる視線に気付く。
振り向くと小柄な少女が頬を薄く染めて、二人の様子を眺めていたようだ。
「あ、あはは、カルラ様。何も見ていて面白いものなど、ないでしょう?」
「あ・・・、う、うン・・・」
慌てて顔を背けるカルラ。
早くも恋に焦がれる年頃なのかも知れない。
いや、今の状態では夫婦共に男の姿であるため、普通の恋人とは少々違う雰囲気に、
圧倒されたのかも知れないが。
◆
照りつける真夏の太陽。
その位置が高い時間はとうに過ぎ去り、今は一旦地に染みこんだ熱が上がって来て、
暑さとしては一番厳しい時間だ。
その熱を避けるように、木の枝に寝そべる、小さな人影。
「んん~~~っ!
・・・飯が不味けりゃ、ひっくり返してやったんだけどなぁ、強かな女だよ。
何の気すら起こさせやがんねぇ」
ごろん、と。見ている方がはらはらするような仕草で寝返りを打つと、
だらりと枝から上体を垂らして、二階の処置室の光景を目に映す。
「・・・私だけが彼を護ることができる、ってツラしてやがったぜ。
馬鹿馬鹿しくなってくらぁ」
ただの、一般的な、何の変哲もない。
何処にでもいる医師のような顔をして、窓の向こうの『レオン』は患者を診ている。
病院勤務の頃だってあんな彼は見たことが無い。
「けけけ、文句ないや、馬鹿なレオン。
か弱いキミによくお似合いだ」
どこまでも穏やかな顔が腹立たしかった。
それと同時に、あぁ似たもの同士なんだなぁ、と、気が付いた。
裏切られることが怖くて、心を閉ざしていたレオンと。
裏切り続けた自分を嫌って心を殺していた伽藺。
「割れ鍋に閉じ蓋、って言葉があったっけ。」
倭国・・・。あの女の故郷の言葉、だっけ。。。?」
幸せになれて良かったねぇ、と口をついて出たのは、本心なのか皮肉なのか。
多分ミハイル本人でさえ、どちらかは分かっていない。
「はてさて、レオの薬なくしてボクは何年生きれるのやら?
地獄の沙汰もナンとやら~~~♪」
独り言ちた人影はやがて薄れる。何処へともなく。・・・死の大陸を離れて。
◆
医師が処置室を出るともう夕刻を過ぎており、厨房からはまた新たに美味そうな香りが、
流れて来ている頃になっていた。
これは香味野菜を煮詰めたブイヨンの香りだろうか。
夕食のメニューを訊ねようと、アッシュは綺麗に片付けられた食堂を経て、
厨房に向かうドアを開けた。
「かりん、治療は済んだぞ」
夫の報告を受けると、伽藺は煮立てていた鍋の火を小さくし、近付いてキスを贈った。
「お疲れ様です、結構時間が掛かったのでは、ないですか?」
「ふむ・・・。いや基本的には薬の処方と、拒絶反応の検査だったので、
たいした苦労にはならなかった。
ただ今後、俺がいなくなっても薬剤さえあれば点滴を続けることが出来るように、
人工血管を付けておいた。
軽い手術のようなものであったが、義父上が・・・貴様がよく使うあのまじない札を、
その場で用意したので傷は塞がっている筈だ」
「あぁ、治癒符ですね」
暮蒔一族に伝わる『符術』という魔法は魔力のある無しに関わらず、
書式と儀式さえ間違えなければ効果が得られるものだった。
なので絆創膏がわりに持ち歩くことが多い。
一応は魔術なので絆創膏より効きが良く、ちょっとした傷程度ならたちどころに、
塞いでしまう。
「何から何まで・・・、本当にありがとうございます」
「礼は言うなと言っているだろう。俺の力はお前の力なのだ。
それよりも今夜のメニューは何なのだ?」
「あ、はい。牛かたまり肉を根菜と香草で煮込んで、付け合せはチーズフリッターにしようと思っています。
あとはサラダとスープで構わないでしょうか」
「充分だ」
妻が供する料理に期待を寄せつつ、軽く尻を撫でては「今は駄目です」と、小さく叱られる。
そんな普段どおりの時間がたまらなく愛しい。
「・・・あの、・・・あのね、レオン」
食事の下拵えが一段落ついたのか、エプロンを外しながら、伽藺が近付いて来た。
妻がこの名前で呼び掛けて来るのは、特別に何かを伝えたい時だ。
「何だ、かりん、改まって」
厨房に置かれた椅子に腰掛けながら、レシピブックに目を通していたアッシュが、顔を上げる。
隣の椅子に座り、伽藺が夫の膝に手を置いた。
「さきほどの、平凡が一番の幸せ、という話・・・。
貴方はどう思っているかわかりません。
幸せに生きて行ける筈の私を捕まえ、その平凡な幸福を奪ったとか、考えているかも知れませんが。
・・・恋をして、恋に悩み。
仕事に息詰まれば、周囲や恋人に支えられ、また翌日から元気に出勤し。
結婚を祝福され、元気な子供を儲けて、蜂蜜のような甘い日々を送り、事情でそれを手放すことになり。
どうにか、安心できそうな場所に子を預け、夫と共にその苦難に対峙する」
この何年かの暮らしを思い返しながらぽつぽつと言葉を紡ぐ。
「ごく普通のあたりまえの生き様だと思うんです。
私がずっと諦めていた『平凡』、それを貴方にいただいたと、私は思っていますよ?」
「ふむ・・・」
改めて言われてみると。
恋をして結婚し、家庭を作り、そして妻と死ぬ。
これ以上に『平凡』な幸せがあるだろうか。
かつて、自分には一番遠いと思っていた輝きが、いつの間にか手の中に納まっていた。
「そうか・・・、そうだな・・・。
これまで、必死に作り上げてきたのは、それだったのだ。
『平凡な家庭』
何時の間にだか、それを実現していたのか」
アッシュは冷たい家に育ち、愛やら情というものを、理解出来ずにいた。
尊敬は出来るが愛を抱くことは出来ない母。
尊敬は出来ないが哀れみは感じる父。
そして無視され放置され、ただ結果や成績を残した時のみ、跡取り息子として扱われた自分。
記憶のある限りでは、泣いたり叫んだりした、覚えがない。
そのかわり、言葉を発することが得意ではない、癇癪持ちの子供になっていた。
生まれて間もない頃、それこそリンネやアルクと同じ頃の自分は、
相応に笑い、遊び、泣いていたのだろうか。
アッシュにはわからない。
が、ひょっとすればそうだったのかも知れないと、今は思うことが出来る。
「そりゃあ平凡であれ特異であれ、生きるということは、苦労の連続なのでしょう。
ただその苦労を軽減し、自身を維持する努力を無駄ではないと信じ、明日への活力や原動力にするために、
人は恋をして・・・、そして家庭を作るのでしょうね・・・」
妻の笑顔が胸を暖かくする。
そうだ。
苦労をしてきたというつもりは無かったが、生きる目的も楽しみも見付からなかったというのは、
充分に不幸であったと自覚してもいいのかも知れない。
自分のせいで心身共に不幸になったり、生きられる筈の時間を失った被害者たちが聞けば、
心底恨むかも知れないが。
そんな生き疲れていた人生の中、初めて本気で『欲しい』と思ったもの・・・。
『失いたくない』と思った恋。
「いつのまにか俺は、どんな奴よりも平凡な男に、成り下がっていたということだな」
レシピブックを机に伏せて置くと、サラダのドレッシングを混ぜている伽藺に、向き直る。
妻はスプーンに、ドレッシングを取ると、夫の口に近付けて流し込んだ。
味見をしろと言っているらしい。
オリーブオイルの香味とビネガーの酸味が、喉につるつると滑り込んでゆく。
「平凡な幸せは・・・不本意でした?」
柔らかな深緑がさらりと揺れて愛しい妻の頬に掛かる。
アッシュはゆっくり首を振ると、そんな妻の頭を引き寄せ、自らの胸元に抱き締めた。
「あぁ不本意だ。
こんなに心地良いと知ってしまっては、いつ堕落してもおかしくないからな」
伽藺が笑った。アッシュも喉の奥で笑う。
鍋は弱火でコトコトと煮込まれている。
こんなことを、幸せだと思う日が来るなど、本当に・・・不本意極まりない。
かくして数時間、検査結果が出た時には0時が近付こうとしていた。
『歩けない』理由は検査をするまでも無かった。
両足首のくるぶし部分に大きな刀傷があり、腱が完全に切られているのだ。
早期なら手の施しようがあったかも知れないが、かなりの古傷らしくもう手術で繋いでも意味がないかも知れない。
そもそも歩くための筋肉がもう足腰には全く無く、腱だけ繋いだとしても一月程度で自立に持ち込むことは、出来ないと思われる。
偶然の事故で付くような傷ではないから、何らかの処刑的な意味合いで付けられたのだろう。
彼女の狂気や錯乱の遠因のひとつなのだとすれば、示蓮の同族たるムロマチ人にやられたのだろうか。
「償い・・・か」
若かりし日の示蓮は迂闊だったのだろう。
妻を愛する気持ちと、故郷を慕う気持ちが強過ぎて、その二つを出会わせれば何が起こるか、
それを冷静に計算出来なかったのだと思う。
自分なら、と考える。
アッシュなら絶対に顔を合わせることなどさせない。
自分の生まれた家、そこに住まう業の深い一族。欲深く狡猾な祖父や母と。
自分が見つけた最愛の妻、そして共に作り上げた小さな家庭、元気に育っている血を分けた子供たちを。
一同に会させることなどは決してしない。
不意に検査室の扉がノックされ、「お夜食はいりませんか?」と伽藺の声がする。
開けるとチリビーンズを挟んだホットサンドイッチを乗せたトレイを持った妻がいた
「お客様たちと、子供たちはもう、お休みになりました。
貴方もお疲れなのではないですか? 母上を・・・診て下さっていると聞きましたが」
男の姿をしているからか、今の妻は母親よりも父親に似ているようにも見える。
それでも今は、かつて父と同じようにその瞳を染めていた、深い後悔と自嘲の色はないのだが。
「あぁ、・・・そうか」
帰宅してすぐに診察を始めてしまい、食事さえも摂っていなかったことに気付く。
とはいえ熱中すればすぐに時間を忘れるアッシュだ。
伽藺もそこは慣れたもので、彼の作業が一段落したらしいタイミングを見計らって、食事を差し入れに来たのだろう。
簡単な中にも夫への想いが込もったサンドイッチを手にしたアッシュは、
明日も来客の世話をするのだろう妻にお休みのキスを贈ると今度は自室に向かった。
◆
「ふむ・・・」
妻の持ってきた夜食を食みながら、脚を組み肘をついて思案する。
目前には、検査結果を書き付けた書類の束、そして真新しいカルテ。
精密検査まではしていないが簡単な採血・レントゲン・その他の検査結果を眺め見るに。
カテリーンの状態は最初に思った通り、産後の血液循環トラブルによる循環器系全体の疲弊が、原因だったようだ。
特に腎機能は低下しているようで、それに関連して心臓・肝臓・脾臓など、血液循環に関わる機能が劣化したのだろう。
ひょっとすると出産時に細菌感染などがあったのかも知れない。
治療手段がないではないが、根本治療となると地道な体質改善が必要となるため、アッシュが関わるのは難しい。
透析装置のあるしかるべき医療施設で延命しながらの作業になるだろうし、技術レベルが太古文明のままで止まっている彼らの里ではどだい無理な話だ。
さらに強行な手段となると健康な臓器の移植になるだろうがまず、性別も民族も違う夫のものでは適合しないだろう。
一番適合しやすいのは親子兄弟だが、ついて来ている娘二人はまだ子供だ。健康な臓器を摘出するには早過ぎる。
伽藺とはどうやら血液型も同じだし、輸血用に冷凍していた血液を使って実験してみたところ凝固もなかったが、
あれは心身ともにのこらず持って行くとアッシュは決めている。
以上、さて原因はわかったが、治療に入るには時間も材料も足りない。これも見立てた通りだった。
あとは依頼人たる示蓮にどこまでの情報を開示するかだ。
(・・・匙を投げるレベルではない。
元より歩行障害を抱え、眠ること自体を生業とするならば、日常的に運動やストレスに身を曝すことはなく、
多少弱った臓器だとしてもさほどの問題にはならない。
さりとて、例のパニック障害を起こせば、突発的に強いストレスを与えることとなり、それにより弱った臓器が持つかどうかは、定かではない。
当事者以外には情報は開示すべきだ。難病ではないという安堵、しかしなり得るという可能性。
根気をもった原因療法と適切な対症療法。そして、臓器移植という緊急的措置)
状況・物資・体力。さまざまな視点から過程と結果を計算する。
(・・・最後のはあまり勧められはしない。現時点で手術自体に身体が持つのかどうか不安だ。
上手く事を運んだとしても、拒絶反応などに適宜対応できる段取りが、今はないし用意も出来ない。
免疫抑制剤を継続して手に入れられるルートが、見付からなければ意味のないことだ)
現時点で出来そうなことは、手に入る限りでの薬物治療、食事などから体調を整える指導と手伝い、
寝たきりでも出来る最低限の運動の指導、介護器具などを使った能動性の助長。
アッシュが一番得意とする外科的な措置で出来ることはあまり無さそうだった。
ふう、とひとつ息を零し、カルテを書き連ねる。
妻以外のカルテを書くのは数年ぶりだ。
アスピリンやモルヒネ等々の薬剤、ガンや心筋梗塞といった誘発する可能性のある病症とその予防、
・・・・・・。
すらすらとペンを走らせるうちに、・・・ち、と小さく舌打ちを漏らす。
単純なことだ。ストックが足りない。
ほとんどが妻専用と独自の研究用に揃えた薬剤ストックで、手広く、しかも数ヶ月持つ程度には大量に、揃えているわけではない。
普段利用している調達先は近場の薬剤師、そして独自のルートを持つミハイルであった。
「いい機会、か?
・・・今生の別れは短く素っ気ない程度がいい」
思い立つと医師は首を曲げて何度かごきごき言わせ、それから机の隅に置かれた電話の受話器を手に取った。
◆
「俺だが」
『ふぁい』
「緊急で大量の薬剤が必要となった。リストを送るが今何処にいる」
『てゆうか時間考えてくんないかなぁ、、、むにゃむにゃ、いいけどさぁ。。今はねぇ、B邸だよ」
「ではFAXが使えるな」
『にゃんに使うのぉ』
「貴様の知らんことだ」
『へいはい』
「明日何時に来れる?」
『ちょっとまだ受信中だってばぁ、レオンはせっかちだなぁ、・・・けけ』
「ふん」
『・・・ん~と?
ああ、何だかキミにしては、えらく普通だねぇ。。本当に病気治療に使うみたいじゃない。
まぁこんくらいなら、そうだなぁ。・・・明日昼には?』
「分かった、払いはいつも通りだ」
『弾んでねぇ♪』
「ああ」
細かいノイズに荒らされながら響く、かつて聞き慣れた旧友の声。
『そぉいえばレオン』
「ん?」
『こんな、大して危な気のない手配でわざわざボクを呼ぶってのは、今生の別れとかそぉいう感じ?』
「ふん。最期くらい顔を見てやらんこともないというわけだ」
『けけけっ、そうかぁやっぱりねぇ、キミは心中だと思った!
だっていつだって、死にたがってたもんねぇ』
「そういうつもりはない」
『良かったじゃあないか、ボクは親友として嬉しいよ、一緒に死ぬ相手が出来て!
逃げられなかったんだ、奥さん!! ・・・可哀想にねぇえ』
「妻は従うといっている」
『そぉだろぉさぁ、けっけっ果報だねぇ~』
「貴様に言われる筋合いはないが、その通りだ」
『じゃあねぇ、ボク寝るから』
「ああ、明日昼に」
ぴ、と。通話終了のボタンを押すと、魔導力の発動を示すランプが落ちて、室内は再びの静寂を取り戻した。
再開される、カルテにペンを走らせる、掠れた音。
・・・そして夜は明ける。
◆
検査用ベッドで眠っていたカテリーンが目覚めたのを確認して、アッシュは栄養剤の点滴装置を抜き示蓮に彼女を引き渡す。
そして、伽藺に昼前に起こせと伝えると、泥のような眠りについた。
伽藺の今日の午前の予定は、一家の仮住まいとなる借家を探しに行くらしく、
ちょうど帰って来たくらいの時間に起こさせれば充分だった。
それから深い眠りについたらしく、アッシュには全くの記憶が無かった。
妻と共に出ていた義妹が帰宅したらしく、玄関に賑やかな話し声が帰って来たことで、
薄く目が覚めた程度だ。
妻に起こされて、その唇を朝一番の栄養補給だといわんばかりに貪ると、寝汗を落とすためのシャワーを浴びることにした。
暑さのせいかキスの余韻か頬を赤らめた伽藺は今から昼食の支度をするという。
シャワーから上がった頃には食べられるだろう。
◆
「それでナ、おっきなバシャが、トオって行ったヨー!!」
昼食時は街の様子に興奮したカルタの、お出掛けレポートを延々と聞くことになった。
出不精なカルラは同行しなかったようだが、その分、子供たちの面倒を良く見ていたようだ。
カルラは、そのクールフェイスに似合わず可愛いものが好きなようで、
朗らかで素直な子供たちにすっかりと執心したらしい。食事中以外はずっと彼らの側にいた。
まぁ8歳とまだ幼い彼女もまた、世間的に見れば『可愛いもの』に、属するのだろうが。
伽藺の見立てなのか、ごく普通の女児服を身に着けた彼女は、もの静かな雰囲気と相まって人形のように愛らしかった。
カルタは本人の趣味なのか、有名なスポーツブランドの、シャツとパンツを身に着けている。
女性らしさのないスレンダーな体や、真っ黒に焼けた四肢のせいで、まるで成長期に差し掛かる以前の少年のようだ。
黙って歩いていればさぞや、近隣の少女たちが騒ぐだろう。
食後の運動のために近場の狩場はないかと尋ねるカルタに、伽藺は少し考えてから『スペクトラルタワー』と呼ばれる塔と、
『文師のダンジョン』を薦めていた。
初めて聞く探索場の話に、瞳を輝かせてカルタは聞き入っていた。
示蓮とカテリーンにも買って来た服を渡し、今日の外回りの成果を報告していた。
移住準備によって空き家になった家ももう多いようで、さすがに新たな住人を見込めない貸家などは、
ウィークリー状態で貸し出されていた。
それなりの高級施設が揃った住居も、格安(ただし家主も移住するらしく前払い)で貸し出されているので、
その中の近場の一件を借りればどうかと・・・。
「ひと月ほどのことですし、たいした家賃でもないですから、その辺りの段取りは私たちがします」
「そうか・・・。私はこのあたりのことはよく分からないから、良いようにして貰えると有難い」
「ええ、父上は母上のことだけど、考えておいてくださればいいです」
「ふむ。食事の管理はかりんに任せるとして、往診には毎日伺おう。
その上で、最適な治療法や薬剤を、見極めることにする」
自分のことを言われているのかどうなのか、カテリーンはよくわからないようで、首を小さく傾げていた。
それよりも、普段は見ないネバーランド風の洋服が珍しいようで、広げながらきゃいきゃいとはしゃいでいる。
「食事の管理も大丈夫だろう、娘たちもいることだしな。
あまり伽藺の手を煩わせてはいけないだろうから、健康上で留意しなければならない部分だけを、
教えてもらえれば・・・と思う」
「了解した。では基本的には減塩・低蛋白のものにした上で、葉菜類・根菜類を多めに摂って・・・。
ただしカリウムのとり過ぎには気を付けねばならん、調理の際には一度下茹でするのがいいだろう。
・・・まぁその辺りは紙に書いておこう」
クイン家に住みたいとカルタはごねたが、伽藺は『八月の一ヶ月は夫とゆっくり過ごす』と決めたせいか、
それについては首を縦に振らなかった。
柔らかな笑みを浮かべつつも「駄目なんです」と譲らない伽藺。
その決意の固さに、がっくりとうなだれた妹の様子が哀れだったのか、遊びに来る分にはいつでも構わないと、
合鍵を持たせることになった。
ただし来る前には電話で連絡することと、20時を越したら帰ることを条件付けたが。
「この月は基本的には貴殿のことのみに、時間を割くつもりだったようだからな」
示蓮はアッシュに語り掛けながら、静かに息子の姿を眺めている。
愛しい筈の子が選んだ死の運命を彼はどう受け取っているのか。
表情に乏しいその顔からは、答えを伺い知ることは、出来なかった。
「私たちは大丈夫。不治の病では・・・ないと。
根気と努力は必要だが、改善が不可能なものではないと、知ることが出来たから」
やはり表情には乏しいものの、そう呟いて改めてカテリーンの方へと向けた視線は、どこかしら穏やかに見えた。
そして今度は示蓮が、昨日アッシュと約束したことを、家族に伝えた。
概要としては、子供たちは示蓮が後見人として引き取り、成人するまでは何の不自由もさせないと約束する。
家督の相続権は無駄な争いを避けるために放棄としておくが、独立の時には十二分な支度金と出来る限りの援助をする。
子供の育成には手慣れたサーシャとサリアを当たらせ、他の親族たちには必要性がない限り極力関わらせない。
最後の一文には娘らが不満の声を漏らしたが、
「財産問題で面倒になりそうな親族ということだ、お前たちは関係ない」という父の説明で納得した。
特にカルラなどは、今後の子供たちとの生活に、随分と夢を抱いていたらしい。
実弟のユノは『跡取り』として、長姉によって特別扱いされているため、おいそれと近寄ることが出来ないらしい。
なので余計に『普通の弟妹』になってくれそうな双子に期待を持つのだろう。
「ナツいテ、クレルだろうウカ?」
「・・・ええ。・・・きっと」
伽藺が腕によりを掛けたスパイシーなカリーとサフランライス、それからタンドールチキンとナンは来訪者たちも、
すっかり気に入ったようであった、。
特に砂トカゲに味が似ているらしいチキンは、カルタの好物の一つになりそうだった。
・・・伽藺は微妙な顔をしていたが。
来客の予定があると聞いてか、食卓はもう一人分余分に用意してあるらしい。
「余計な世話だぞ、かりん」とにべもなくアッシュは言い置いたが、妻はにこにこと笑うままだった。
どうも伽藺はミハイルに対してのアッシュのつれなさを、親しさから来る照れだか何かだと思い込んでいるようだ。
賑やかな会食の時間が終わる。
沈黙を尊ぶアッシュの普段からすれば、少々賑やか過ぎる食卓だが大目に見た。
じっくりと休んで寝が足りたので、気分が良いことも手伝っていた。
さて、旧友が訪ねて来る予定の昼は、もうそろそろという頃だが・・・。
◆
「あら、来られましたね」
チャイムの音に伽藺が顔を上げると、アッシュが無言で席を立ち、玄関に向かった。
「やぁ」
相変わらずな瞳が、日除けの付いた帽子の下から、見上げている。
やけどにただれた半面の中の、光を失ったような・・・それでいて、全てを見通すような薄い色彩。
「ふん」
「部屋にいないから、リビングかと思ってねぇ」
動き易い旅装に包まれた小柄な体が、不躾に屋敷内に上がり込む。
「普通は玄関より来るものだ」
「奥さんにヒミツの調達とかあるだろぅ??」
「馬鹿を言う」
「と、ゆうことはお招きに預かってもいいわけだ」
「あれが、食事の用意をしている」
きょと、と。驚きの表情に彩られる。
その性格的特性と仕事の方向上、ミハイルは招かれざる客として扱われることには慣れていたが、
こう正面きって招かれることは珍しかった。
「へぇ! ボクの? 嬉しいなぁ♪」
一件、純粋に喜んでいるように見える旧友に、激しく不審を感じたアッシュが睨み付ける。
「義父や義母、義妹なども同席している。大人しくしておらんと承知せんぞ?」
「へぇぇぇ・・・♪ なぁんかホントに世も末って感じだねぇ」
「全くだ」
一家の団欒やら、妻の実家との交流。
自分には最も縁のない世界だと、かつてはどちらともが思っていた。
ミハイルは、わからない。
今後、そんなものを得る機会があるのか、無いのか。
孤独を友として暮らすのか、新しくつるむ相手を見付けるのか。
しかしアッシュは得た。
得る可能性の低いだけに、一度得たなら大切にすることだろう。
そういう性質であるのを両人ともが、心のどこかでは認めていたが。
しかし認めたくはなくて、かつては笑い飛ばしていた。
ふと、ミハイルの口元を歪めた笑みが、真顔に変わる。
「・・・キミに会うのは最期なんだろう」
「そうなる」
「ボクがキミに出会って何らかの救いって奴を得たように、
キミがボクに出会って何らかの意義を見出せたろうか?」
「いいや、取り立てて何もない」
表情も、語調も変えず。
言い放つ男の顔を見上げたまま、瞳は見開かれ、閉じ。そしてまた開くと、悪戯っぽく歪んだ。
「けけけ、それでこそレオン」
「ふん」
「じゃあボクからの、せめてもの手向けだ」
小瓶を渡された。
揮発性のある薬剤か、それとも劇薬なのか。
貼り付けてあるラベルに目をやると、ふむ、と、アッシュは一つ頷いた。
「使うか使わんか、分からんぞ?」
「まぁ、上手くいかなかったとき用にでも? けっけ」
◆
暫しの語らいに時間を費やしたのち、食事の後片付けを手早く終えた妻が見に来たことに気付き、
リビングへと戻ることにした。
ミハイルは招きに預かった光栄に、食事もひと段落し歓談している様子の一家へ、
帽子を取ってやや大袈裟な謝辞を表明すると、伽藺に勧められるままに席に着いた。
随分と調子良くおどけて挨拶をしたため、カティやカルタなど女性陣の関心を、一気に引いたようだった。
小さなカルラもおどおどとではあるが、異国の少年(に見えただろう)を興味深そうに見つめ。
赤子たちは言葉がわかっているのかいないのか、くるくる変わる表情や口調にきゃっきゃと喜んでいた。
唯一、あまり明るく賑やかな場に耐性のなさそうな示蓮だけが、どんな顔をしていいかわからないとばかりに、
頬を引き攣らせていたが。
案内をしてくれた友の愛妻へも、遅れながらの結婚祝いを述べつつ、握手を求める。
伽藺は「いいえ、そんな!」と手と頭を振り。
「結婚式の時には陰から随分と、ご協力下さったと聞いております。
あの余興、旦那様からのプレゼント・・・は私、あまりに嬉しくて泣いてしまって。
・・・『喜ぶと思ったのに何故泣く?』なんて旦那様を困らせてしまいました」
夫のばつの悪そうな視線を受けながら、妻はくすくすと楽しそうに笑っていた。
そして少しだけ残念そうに眉をひそめると、差し出された手を両手でぎゅっと握った。
「貴方と私が接触することは、旦那様があまり快く思っていなかったみたいで、
あまり機会を与えていただけませんでしたけれど。
私は状況が許せば、もう少し貴方ともお話したかった、と・・・思っています」
その様子に、アッシュは一瞬、ぎょっとした、が。
・・・この場では口を挟まないことにした。
彼は旧友を熟知しているつもりだったし、だからこそ信用はしても信頼は出来ないでいた。
かつて、『愛しい』もの・・・、いや・・・。
ひょっとすると、愛しいものになったかもしれないもの、・・・を壊された時も。
ミハイルは一見すれば人好きのする笑顔を浮かべ、何の悪意もなく振舞っていたかのように見えた。
しかしそんなこと伽藺は知らない。
お人好しの妻は、気付くどことか危ぶむことさえ、しないだろう。
無用心なわけではないのだろうが、アッシュの旧友ということでどうも、判定を甘くしてしまっているようだ。
今も普通に感動した様子のまま、祝いの言葉に返事を述べている。
「いろいろと、沢山の思いやりを、有り難うございました。
私はわがままで気弱だから、旦那様も理解が及ばなくて、何かと困ることが多かったかと思います。
・・・そういう時にきっとミハイル様の存在は、とても心強かったのではないかと思うのです」
そして客人の耳元に顔を近付けると、
「お口にも態度にも、出さなかったでしょうけれどね。でも心の中では、きっと」と小さく耳打ちした。
またミハイルはリンネやアルクともよく打ち解け、目前で賑やかにされることが嬉しい年頃の子たちに、
きゃっきゃきゃっきゃと喜ばれていた。
「なぁんだ、こんなに可愛い可愛い子どもたちなら、ボクだって快く預かったのにぃ♪」
と戯けてみせるが、アッシュはじろりと一瞥をくれながら、「貴様には指一本触れさせん」と制した。
「そうだ・・・お食事を運ばなければね。今日の食卓はエスニックなんです。辛いものが苦手でなければいいのだけど・・・。
一応、ココナッツミルクも用意していますから、辛過ぎるようなら混ぜて下さいな」
客人が心尽くしの食事に口を付け始めると、アッシュは妻を呼んでそっと厨房に入った。
「かりん、よく消毒しておけ」
「・・・・・・? は、はい、わかりました」
夫のとつぜんの言動に躊躇いながらも、良妻である伽藺はその言葉にしたがった。
「さっき食器を洗ったばかりだから、大丈夫だと思うのだけどな・・・。
・・・は、まさか洗った筈の食器が汚れていたとか、そういうことでしょうか?
なら一緒に、食器も洗い直した方がいいのでしょうか、汚れた手で触ってしまったから・・・」
「いや・・・」
どう説明したものかとアッシュは頭を捻った。妻は他者の悪意を必要以上に気に病む部分がある。
アッシュからすれば、人の個人差や好みの差というものがある以上、
誰にでも好かれることなど無理があると思うのだが、分かっていてもなるべくなら嫌われたくないと思うのが、
妻の性格のようだった。
ミハイルとは多分今後会うことは無いだろうし、わざわざ悲しませるようなことを言う必要も無い。
そう判断するとアッシュは首を振った。
「いや、貴様は綺麗だ。時折、穢すことを躊躇われるくらいに」
ぽっと頬を赤くして妻の、濡れたままの手に接吻ける。
「ただ、ミハイルはどこをほっつき歩いて来たか、分かったものじゃないからな」
「あはは、まさか。旅暮らしをしていることは存じておりますが、所詮人間が行ける程度のところにしか、
足は伸ばさないでしょう?」
「いいや樹妖化した貴様と同じで、鼠が擦り抜ける程度の穴さえ空いていれば、
どのようにしようが入り込んでしまう。そういう部分だけは常識の範囲内では計れない男だ」
「へぇ・・・?」
肩を竦めて苦笑しつつも、それ以上は妻も突っ込んで来なかったので、
アッシュも不必要な言葉を重ねる必要は無くなった。
二人が連れ立ってリビングに戻ると、小食ながらもよそわれた量だけは完食したようで、
もう既に子供たちに囲まれて遊び始めていた。
伽藺の接近に気付くと礼を言い軽く食事の食卓を述べてから、
ミハイルはアッシュに目くばせして階上の部屋に登って行った。
「仕事の取引きの話だ」と言われ、伽藺はそれ以上は深追い出来なかったので、
置いて行かれてつまらなそうな、リンネやアルクそしてカルラを軽くあやしながら、
午後の家事へと戻った。
「やはり、追手の可能性をもう少し、深刻に考えれば良かったか?」
その大きな背中に伽藺を庇い呟くアッシュ。
しかし示蓮は、旅装のフードを落とすとその顔を露わにして、静かに頭を横に振った。
そして抱えている大荷物に巻いた布も落とす。そこに眠っていたのはカテリーンだった。
「は・・・、母上・・・!?」
「どういうことだ?」
静かに視線をカテリーンに移し。しばらく慈しむように眺めてから、示蓮が重い口を開けた。
「貴殿らと共に、連れて行って貰いたい」
「・・・・・・!」
伽藺の表情に緊張が走る。
「何を言っている、そのようなこと、出来るはず・・・」
「いいえ、いいでしょう」
「・・・かりん?」
アッシュが驚いて聞き返したが、伽藺は緊張した表情を崩さないまま、じっと父を見つめていた。
「多分、考えていることは、私と同じなのでしょう。
母上の夢を・・・幻想を打ち砕くには、その一番の原因を目の当たりに、しなければならない」
こくり、と。重く示蓮は頷く。
「・・・しかし、暮蒔の里には、連れて行けない。
あそこに行って平静でいられるほど、母上の心の傷は癒えていない・・・」
さらに頷く。
「だから・・・」
緊張が最高潮に達し。張り詰めた空気がアッシュや姉妹の肌を裂く。
「私たちの元に彼らが訪ねるであろう時。同席して・・・母上を、・・・希鈴と面会させようと」
「・・・・・・」
示蓮の瞳は静かだったが、強い意思を秘めていた。
衛士長とはいえ重要人物を連れ出してきたのだ、然るべき手順と手続きを踏んで来たのだとしても、
その間にカテリーンに何かあれば責任を問われるのは明白であろう。
それでも。
彼はもしもの時には全てを負う覚悟で、狂った妻を抱えてやって来たのだろう。
その狂気を癒せる『かも知れない』、唯一といえる材料を求めて・・・。
「『逃げられる牢』に、入れていただいたお礼も、しませんとね」
伽藺は悪戯っぽく舌を出してみせる。
「無茶を考えることだ、親子揃ってよくもまぁ。
・・・劇薬に過ぎるかも知れないと考えることは無いのか?
それに向こうの土地はこちらとは、気温も湿度もまったく違う。
病人が急激な空気の変化に、耐えられなければどうするつもりだ」
「それ・・・でも・・・」
示蓮はこの上ない慈しみを込めながら、布の間に覗く妻の寝顔を見つめる。
「醒めない悪夢の中よりは、きっとましだと・・・思うから」
顔を上げ今度はアッシュを真っ直ぐに見た。
「あの後。夢見様・・・いやカティは、混乱が収まるとひどく消耗して危機状態に陥ったのだが、
レオン殿にいただいた栄養剤を使わせて貰ったら、ほんの数時間で意識を取り戻したのだ。
今はよく眠っている」
「ほう・・・」
感心したような声を上げて、アッシュは示蓮の腕の中を覗き込む。
「やはり親子、かりんが妖と化したりして変貌したとはいえ、ヒトの部分においての根幹の体質は
似通っていたか。
・・・多少なりとも義父母上に貢献はできたわけだ」
アッシュは傍若無人ではあるが、最愛の妻をこの世に送り出した義両親に対しては、敬意は払っているらしい。
それに、愚直なまでに一途に義母を護ろうとする、義父の姿勢にはシンパシーさえ感じていた。
「そうだな、感謝している。
そして今までは、神殿から動かすことさえ躊躇っていたが、この薬があれば可能かとも思う。
カティとも話して決めた」
それが結果的に彼女の命を縮めることになったとしても。
悪夢を破りたい。呪縛から解き放たれたい。
「このまま何もせず、明日にも訪れるかも知れない死を待つよりは、命の灯のある限りもがいてみたいんだ。
私も・・・カティも・・・」
夜風に遊ぶカテリーンの髪を撫でながら、噛み締めるようにゆっくりと示蓮は告げると。
ふとカテリーンが目を覚まし、そんな夫の頬をゆったりと撫で、幸せそうな薄い笑いを浮かべた。
・・・伽藺も、自分の手を握る暖かい感触に、視線を手元に向けて・・・そして夫の顔を見た。
「貴方・・・」
何か思うところがあったのだろうか、アッシュの大きな手はしっかりと、伽藺のそれを握り締めていた。
相変わらず表情が伺い難い顔立ちだが、口元が少し笑っているような気がした。
伽藺もしっかりとその手を握り返す。
「貴方が持たせて下さった薬のおかげで、私は親殺しにならずに済んだようです」
◆
半寝状態のカルラが地面に描く、魔法陣の真ん中に全員が乗ってからトラテペスに着くまでは、
やはり一瞬であった。
焼けた砂が乾いた風を吹かせる砂漠の土地から、潮の香りを乗せた空気が満ちるトラテペスの海岸に着く。
転移術に未だ懐疑的であるアッシュは、苦虫を噛み潰したような顔を崩さなかったが、
とある疑問に思い当たって伽藺に問うた。
「そういえば、砂上艇などの観光サービスがあったということは、旅行者もそれなりに多いのか?
やはりいちいちこんな怪しげな術を使って、移動しているというのだろうか・・・」
夫の呟きに伽藺が返す。
「神と共に封じられていたというのは、過去の時代の話のようです。
今は外からの干渉も受けるようだし、旅行者も移住者もいるようですよ」
「神と共に?」
伽藺は一つ息を吸い、かつて叩き込まれた知識を思い出すと、ゆっくりと空んじ始める。
「エディンは元々、古代文明が栄えていた頃のオールド大陸からの移住者、
・・・侵略者なのかな・・・の集落で。
そして後には、聖神アースを封じる牢獄として、世界より切り離された土地だったはずです。
アースは今となってはコリーアなどと違い、よくよく現世に姿を現す神となっているでしょう?
かつて呪われた天使として縛られていた彼を、その呪縛を解いて自由に動けるよう解放したのが、
エディンに住む一人の少女だということらしいのですが。
その時からエディン自体の封印も解け、現世にある大陸と自由に行き来出来るようになった、
・・・というお話です。
10年でしたっけ、20年でしたっけ、まだ比較的新しい歴史のはず。
え・・・と・・・。確か魔導世紀1027年の出来事だったかなぁ。じゃあ15年になるのかな」
15年前の出来事であったとしても、正式な歴史として編纂されるには、さらに数年のタイムラグがある。
アッシュが学舎で歴史として学ぶには、タイミングがずれていたらしく、初めて聞いた話のように驚いていた。
アース教の教会に通って説法でも聞いていたなら、耳にしたこともあったかも知れないが・・・。
かくいう伽藺も10年前のツェンバー仕官の際に、上司から教わった歴史を思い出しているだけだったので、
細部を誤っている可能性もあった。
「開放されてからはNL大陸との交流も活発になったようです。
人種が『エディン人』とされる人々の中にはかつてのエディン人・・・、
オールド大陸でゼノン人と言われていた者たちの末裔だけではなく、実際にエディンの地から出て来た者も、
いるのでしょう。
ちなみに計算すると、私の生まれた時期にはまだ解放が行われていませんでしたから、
私の父はまだイレギュラーな迷い人だったということになりますね。
妖界と現世を渡りながら仕事をしていた関係なのでしょうかね・・・」
「成る程な」
深く頷くアッシュの様子を見て小さく笑うと、伽藺は熟睡している赤子の様子を確かめ、
星に彩られた夜道を通って住み慣れた屋敷の門戸をくぐる。
「夏の夜なのに・・・。砂漠の真ん中に比べるとやはり、少し肌寒いくらいに感じますね。
もう夜も遅いですし、宿を探すのは明日からにして、今晩はうちの客間にお泊まり下さいな。
一応は入院施設もありますから、もし母上の容態が急変しても、対応は出来ると思います」
アッシュに了承を得ると、伽藺は双子を寝かし付けるべく、屋敷の子供部屋へと向かった。
妹たちは待合室に通されて、冷たいジュースを飲みながら寛ぎ。
示蓮は、一刻も早くカテリーンを休ませたいと、アッシュに寝床への案内を頼んだ。
◆
消耗の具合から点滴を施した方がいいだろうと、まずは処置室に運んだアッシュの後に続いた示蓮は。
最新鋭とは言えないまでも、一通りの医療器具が揃った処置室を眺め、静かな声で切り出した。
「・・・レオン殿。
間借りをする身で、こういった頼みをするのも気が引けるのだが、貴殿にお願いしたいことがある」
処置の準備をしていたアッシュの瞳が、表情を映さないままに義父に向けられる。
「カティが・・・妻が、現状どのような状態なのか、本当にもう手の施しようはないのか。
正式に調べていただきたいのだが」
エディンにも医者がいるにはいるが、そのほとんどがいわゆるウィッチドクターのようなものであり、
解剖学的見地からの検査や診断は難しいのだという。
しかも相手は夢見師である。
神殿の中では下手にことを起こせば不敬に当たり、思い切った検査や治療を行おうとする者は、誰もいなかった。
針を刺したりメスを入れることなど、発言さえも許されない雰囲気だったのだ。
しかし、万にひとつでも回復の可能性があるなら、示蓮はその手段を試してみたいと言う。
勝手に大きくなる夢見師の名前、そして娘のプロデュースを経て発展してゆく神殿の規模に、
彼はずっと恐れていたのだという。
そのうちカテリーンというただのか弱い女性は、ごく普通の者ならば享受できる筈の恩恵さえも受けられず、
形だけの崇拝を受たまま見殺しにされるのではないかと。
アッシュからしても、現状のカテリーンの状態や決定的に体調を崩した時の話を聞き、
ひょっとすれば処置の可能性はあるのではないかと思っていた。
とはいえ単なるカンのようなものであったし、もし当たっていたとしても治療に必要なものが、
簡単な薬や医療機器ではなかったので、口には出すべきでないと判断して黙っていた。
「俺は・・・、貴様らのむすm・・・」
つい本音が出掛けてしまい慌てて言い直す。
「・・・息子以外を治療することなど滅多にないのだが。
俺に医師として語りかけるならば、俺も医師として忠告しよう」
静かな語り掛けと静かな頷き。
・・・無口な男同士の、静寂でシンプルな交流が、そこにはあった。
「さすがに既知とは思うが、如何に身体が回復しようと、狂気が治ることなどないぞ。
一時的に安定させることはできるが、心の病には一生涯付き合うことになる。
貴様らの息子も、同じだった。
あれは・・・かつて、狂気に苛まれていた。死にたいと願っていた、・・・らしい。
俺との暮らしも、普通の神経を持つ者にとってみれば、死んだ方が楽なものだったのかもしれん。
しかしあれにとっては、むしろ快適な生活であったようだ。
死に行く者、死にたいと願う者、生を苦痛と感じる者。
そういった意思を持つ者を、愛しているからというだけのエゴで、生き永らえさせようとするならば、
必要な根気は相当なものとなる。無論、本人の強い意志を喚起する必要もある。
・・・それを覚悟してのことか」
過去のトラウマやフラッシュバックに、狂乱する伽藺を支えて立ち直らせ。
『幸せ』という言葉を引き出すまでには、アッシュも随分と労力を払ったかと思う。
その時その時は必死だったので、特に苦労だと感じたことは無かったのだが、
思い返してみればそれは全て、彼の強靭な意志があったからこそ、出来たものだと思えたし。
同じことが常人に出来たかというと、客観的に考えれば難しいのではないか、と判断していた。
義父の物静かな蒼紫の瞳を、じろりと奥まで覗き込む。
「そう・・・だな・・・」
示蓮はアッシュの言葉を噛み締めながら、自分と妻が送って来た人生に想いを寄せる。
「生涯付き合い、支えてゆく覚悟というなら、それはあるつもりだ。
いや・・・なくてはならない。彼女がああなったのは、私の非力がゆえなのだからな」
瞳はアッシュを見返すわけでもなく、ただ、もっと遠くの場所を見ている。
「それでも私はまだ未来を夢見ている。
私たちはすっかり年老いた。それでも助かる可能性がないか、逃げ出す隙はないものかと。
今回、もう一生会えないかと思っていた、伽藺に会えた。
これで希鈴に会えれば、ひょっとしたら・・・と、甘いかも知れないが希望を抱いている」
言った表情は少しの後悔と自嘲を含んだ微笑で、伽藺がアッシュと出会わないままに成長すれば、
こうなったのではないかと思う程度にはやはり似ていた。
「ふむ・・・」
吟味するようにアッシュが頷く。示蓮はその相槌に促されるように続けた。
「魔法や呪いではない。
純粋に私が彼女を振り回し、傷付け狂わせた結果、こうなってしまったに過ぎない。
それでも。・・・エゴだとは思うが私は彼女が、私を愛するゆえにこうなったことを、
どこか嬉しくも思うのだ。・・・酷い夫だとは思うが」
そういえば伽藺も、傷付けたい訳ではないが自分のために傷付いてくれるのは嬉しい、と言っていた。
モラリストゆえ、相反する愛と欲望に悩むところは、妻は父親に似たのかも知れない。
「だが、娘や息子たちを哀しませたまま、終わらせたい訳でもない。
ひょっとすると今回のことで、正気が戻ったとしても、
娘たちや息子との、あったはずの愛を取り戻す、それにはまだ時間が必要だ。
・・・命、という名の、時間が」
言うと『喋り過ぎただろうか』という顔で、首を巡らし視線を逸らせた。
「・・・・・・。分かった、とりあえず検査は行おう。
必要量の生体組織さえ採取できれば、義母上も義父上も休んでいて構わん。
ひと晩もあれば概ねの結果は出るだろう」
ただし、と。低い声で改めて告げる。
「これは個人的なことになるが、検査や治療の結果、命を永らえたとしても、
俺は俺の妻を傷つけるものを許さない。
如何に義母上といえど今後、妻が傷つくような言動を取るようなことがあれば、
相応の処置はとらせてもらうから、そのつもりでな」
「心得た」と示蓮は頷く。
表情は神妙であったがその実、自分たちの子は本当に大切にされているのだと、
ほのかな嬉しさを感じていたのも事実だった。
「まずは何処がどう悪いか、調べて貰えるだけでいいかと。治療は結果次第で考える。
謝礼・・・は・・・」
少し口ごもり、考えながら口を開く。
「金品なら多少は持って来ているが、今の貴殿らに渡しても仕方がないだろう。
なので、孫たちを預かる話が決まったとしたら、その分・・・。
彼らには不自由はさせないと約束する」
「・・・・・・。分かった。価値の在る取引きだと言えよう」
アッシュとて。
置いていくことを決めはしたものの、伽藺と共に生み育てた子供たちは、大事であった。
偽り無くそれを約束されるとするならば、これで後顧の憂いが断たれることになる。、
「魔法だとか呪いとか、訳の分からんものでなければ、これでも概ねの病は治療できる。
まあ魔法でもここ数年齧ってはきたため、少々ならわかるかもしれんが生憎専門ではない。
・・・さて、邪魔だ、出て行け」
旅装を脱ぎ捨て身の埃を払うと、普段の白衣に着替えて、医療器具の準備を始めた。
「あぁ、頼む」
示蓮も頭を深く下げて退室しようとするが、ふと気付いたように踵を返して告げた。
「診たらわかると思うが妻は歩けない。
なので移動の必要があるなら、私が眠っていても起こしてくれて構わない。
あと、起き抜けに知らない人物がいたら、錯乱するかも知れないが・・・」
じっと、頭一つ近く高いところにある、アッシュの黒い顔を顔を眺めながら。
「いや、レオン殿は外見的には砂漠の民に近いな、大丈夫か」
と、呟いて一つ息を吐き。再び頭を下げて退室した。
深緑の髪はところどころに白い埃の玉がつき。
這いずったように肌は汚れ。
この辺りの普段着らしい風を通す薄手の服は、擦り切れたり裾が千切れたりしている。
しかし人為的なものではなく、あくまで移動の途中に、そうなったのだろう。
状況を鑑みて、牢から脱獄してきたのではと、思わざるを得ない格好だった。
「いやぁ、あはは。貴方が帰って来るまでには、戻ろうと思っていたんだけどなぁ
ええと。ト・・・トカゲ狩り、楽しかったですか?」
叱られる寸前の子供みたいな目つきで、伽藺は上目使いに見上げている。
アッシュは次に伽藺の顔を見た時、自分は先行の理由も聞かず、怒鳴りつけてしまうのではないかと危惧していたが、
意外にも自然に抱き締めてはその背中を撫でていた。
「・・・かりん。
一人で危険を犯すなと、叱りたいところだが、先ずはよく戻った」
そしてもう逃がさないよう、ひょいと抱え上げて片腕に座らせる。
男の身では長身な方の伽藺だが、軽々と抱え上げられることになり、少々慌てて降ろして下さいと呟いた。
「恥ずかしいと思うなら、これが俺からの罰だ」と、意地悪くアッシュは笑う。勿論、降ろしはしない。
「貴様はまったく、無茶をする。
狂わせた要因の一端に、自責を感じたか? 拒否された子を、自らと重ね合わせたか?
・・・しかしまあ、後悔のないよう行動を起こすというのには、感嘆する」
がしがしと頭を撫でる。普段は大人しいタイプの妻が、思い切った行動に出たのだ。
振り絞った勇気は、生半可ではないだろう。
「すみません・・・」と妻は勝手な行動を夫に侘び、その理由をぽつぽつと話した。
「危険にはならないという、目算があっから、行ったことでもあるのです。
貴方を巻き込めば多分、事態は余計に難しくなると思って。
・・・多分、私だけでないなら衛士長・・・父も、他の衛士を下がらせて一人だけで捕縛という訳には、
いかなかったでしょうし。
無傷で捕らえて、比較的脱出の容易な牢に閉じ込めるという判断も、許されなかったかと思うのです」
話を聞くアッシュの表情が、どんどん渋いものになってゆく。
「そうか・・・、そうだな・・・。
そういった計算の上なら、話をしてから行けと言いたいが、話があれば確かに俺は止めただろう。
そして、余計なことをしただろう。
黙して貴様を捕縛などさせる訳がないしな?」
聞けば聞くほど、今回に限っては自分の出る幕は、無かったのだと思わされる。
伽藺を守るためにいる筈が、全くもって隠密行動や防諜行動に関しては、自分は役立たずだ。
そんな夫の落ち込みを察してか、伽藺が慌ててフォローを入れる。
「いえいえ、私、妖怪ですから!
鼠が侵入出来る程度の隙間があったら、脱出することが出来ますからね」
体質上の問題だと、伽藺は言いたいのだろう。
「私としても目算はありましたものの、確率的には良くて80%程度かな、と思っていましたし。
まず父が職務よりも、親子の情を優先させる方かどうか、という賭けでもありましたね。
そういう意味では、20年以上離れていたという部分は、大きなマイナス要因でしたもの。
・・・まぁそもそも私を、人用の普通の牢に入れること自体、逃げろと言っているようなものでしょうが」
そんなに低かったのか、と、今さらながらにアッシュは、伽藺が赴いた行動の危険性に驚く。
90%だろうが95%だろうが、100%ではない限りアッシュにとっては、危険な賭けであった。
たとえ1%以下であろうと、最愛の妻を失う可能性のある賭けに、乗る訳には行かない。
「あまり、心配を掛けるな」
抱き寄せる腕に力を込める。
妻を失ってしまった場合の自分を想像したのだろうか、その表情は捨て子のように不安気に歪められていた。
「・・・ぁ・・・」
締め付ける腕の些細な痛みを感じて伽藺は、どれだけ夫が焦っていたのかを改めて知った。
「お出掛けの間に出て、帰って来るつもりだったのですが、あは・・・」
夫の頭を包むように抱き締めて、そのふわりとした癖毛を指で梳く。
妻に少し子供扱いされているような気がして、アッシュはばつが悪い気持ちになったが、
いつまでも落ち込んでいるのは自分に似合わないと思った。
特にここには妻だけでなく老婆と子供もいるのだ。
隠密行動は得意ではないが他については、頼れるのだというところを見せないと、面目が丸つぶれだと思い。
妻を腕から降ろして背筋を伸ばす。
「さて、どうする。追っ手があるならば逃げるぞ。
転移の術を得んと帰れんというならば、その機会を得られるまで身を隠そう。
その必要がなく、話し合いの余地があるというならば、同伴の上で貴様の父の元に赴こう。
今度は捕らえさせなどせん」
夫は繊細な部分の在る人物であるが、動かねばならない時には全ての問題を投げ打ち、前を見据える強さがある。
そういったところが、落ち込み易い伽藺には、心強い部分であった。
「むしろ、今度また捕らえられるようならば、無理にでも連れて帰るぞ。わかったな?」
「はい・・・」
伽藺は薄く笑い、目算も含めた状況を、整理した。
「追っ手は無いと思います。父上からしても対外的な目を気にして、牢に入れただけなのだろうし。
けれど多分これ以上は、私にも何も出来ません。
たとえまたうまく忍び込めたとしても、母にこれ以上の問題提起に耐える体力は無いだろうし、
父もさすがにもう庇うことは出来ないでしょう」
「そうか・・・」
「帰るしか、ないかな・・・。
子供たちのことは、残念だけどこのまま預けるのは、難しそうだし。
さすがに積極的に捕らえようとする程ではないでしょうが、ここにいても迷惑がかかるかも知れませんから」
傍らでサーシャにしがみ付いているユノに、「傷付けてしまっただけだったね、ごめんね」と呟き、頭を撫でた。
実母から拒絶されたショックから立ち直っていないのか、ユノは俯くだけで返事を返すことすら出来なかった。
サーシャには、帰還のためにカルラに、連絡を取って貰うよう頼む。
さすがに、幼くとも仕事を請け負っている身なので、すぐにという訳にはいかないだろうし、出発は夜になりそうだった。
「しかし理解に苦しむ連中だな。
如何に神聖といえ、取り乱しただけで相手を捕縛とは、俺ならば想像すらできん」
「そこまでして、守る必要があるのでしょう。『夢見師』という存在が持つイメージを。
実際以上に多大な能力と、そして過剰な権力を演出する。
そうして反意を持つ者が現れる前に、その牙を抜いておくのでしょう」
伽藺の声音にはほろ苦い響きがあった。
それが表面的に教団を統べている両親ではなく、妹が決めた方針なのだろうと思うと、
何ともやるせない気持ちになってしまうのだった。
「・・・そうか。権力の演出・・・な」
どこにもあるものだなと、アッシュは思う。
◆
彼の故郷はとある南の大国。
生家は医療についての名門と言われる、とある有名な家系の本家筋であった。
国土に点在する膨大な数の病院と、国外の治療院までもを保持する医療富豪。
それこそ対外イメージとしては、『白衣の天使』という言葉に重なる、クリーンなものだったろう。
しかしその実際がどういうものだったかは、内側で育ったアッシュには見えていた。
名誉欲と権威欲に彩られた醜い老人---祖父。
外見が醜かったという訳ではない。
寧ろダークエルフという種族特性上なのだろう、実際の年齢よりは若くて溌剌としていたように思う。
尤も、あの老人が実際に何年ほど生きていたのかは、アッシュ本人の知ったことでは無かった。
ひょっとすれば数百年ほどは生きていたのかも知れない。
彼はその権力でもって次々と若い妻を娶り、生まれた子供を自らの駒として、あらゆる医療機関に送り込んでいた。
妻たちは健康な子を生める若さを失った頃に、祖父の屋敷から姿を消していたかと思う。
どうなったかなどは知らない。
権力に惹かれて集まるような女たちだ、数十年程も遊べる金を手渡せば、快く妻の座を明け渡すことだろう。
・・・老獪なあの祖父が、財産を切り崩さねばならないような別れ方を選んだかどうかは、
深く考えるほどに、きな臭い思考にしかならないので、考えないことにしているが。
そして何より祖父の側には、若くて美しいその時々の妻たちではなく、常にアッシュの母が控えていたように思う。
これがまたあの祖父に輪を掛けて、狡猾で残酷な女だったように思う。
恐ろしいほどに頭が切れ、行動力もずば抜けてあり。その才能の全てを野心と野望のために掛けているような。
そんな母であった。
容姿は自分に似ていたように思う。祖父にも似ていたからひょっとすると、一族のうちの出身だったのかも知れない。
心身に障害を持つ父を蔑み、精力的な祖父に心酔しその手足となって、日々忙しく立ち働いていたことから、
幼少のアッシュはひょっとして自分の実父は、祖父なのではないかと考えたこともあった。
すぐに、そんな興味は持っても仕方がないことだと、頭の内から追い払ったが。
幼き日のアッシュの学力の高さに、祖父は将来が嘱望できると喜んだが、母は言語能力の遅滞がみっともないと蔑んだ。
心酔している男の血を引く子ならばもうちょっと、その成長の具合にも興味を持つのだろうから、
事実はどうあれ母にとって自分は父と同程度の『イキモノ』なのだと。
そう納得したのは、10になった頃か、どうだったか。
祖父だって期待するといいながら、滅多に顔を見せるものでも無かったし、直接声を掛けられることも無かった。
ただ金だけは湯水のごとく与えられ、軽く一人ごちただけで翌日には、欲しいものが届けられる。
それもこれも、期待の気持ちの表れなどではないことを、アッシュはその肌で読み取っていた。
『名門』の名を穢さないがために。
一族の者・・・特に後継者となる可能性のある者には、食うにも学ぶにも不自由させたことはないと。
胸を張って周囲に嘯くためのものなのだった。
また、医療の世界に清らかな家名を、轟かせながら。
裏社会のビジネスにも太いパイプを持っていたことを知っている。
というよりも、あの国で医療関係者としてある程度の高みにまで登った者なら、誰だって知っている話だった。
薬品流通・細菌実験・そして・・・死体ビジネス。
あの立場を以ってしか出来ない、あの立場だからこそ作り上げられた、黒い聖域。
それでもあえて関係者への口止めはせず。ただ、裏切った者にのみ社会的に、制裁を加えてゆくやり方。
真白き姿を維持しながら、黒い噂を強くは否定せず、ただ、強く噛み付いた者は『不思議な事故』で消えて行く。
あれも・・・『イメージの演出』の一つだったのだろう。
やがて、『イメージ』に合わせることが出来なかった自分は、いとも簡単に捨てられた。
---なんということだと、額を押さえてクククと笑う。
アッシュと伽藺。自分と妻は真逆の特性を持っており、似ているところなどは無いかと思っていた。
なのに、妻の故郷を覗いてみれば次から次へと、仕舞いこんだ過去を抉るような事件が起きる。
まったく、本当に。愉快で仕方が無い。
どうやら妻とは本当に、出会うべくして出会った、魂の半身だったのかも知れない。
「納得は、したか?」
問うと伽藺は小さく頷いた。
「結果的に、残念ではあったけれど、心残りはありません。
申し訳ないなと思うのは、私の納得に弟を利用して巻き込んで、傷付けちゃったかなということだけ」
「必要な傷だろう」
いかに傷付けないために吐かれた嘘とはいえ、真実を知るのが後になればなるほど、傷跡は深くなる。
状況に期待が持てないのならば、最初から現実を突き付けておいた方が、よほど子のためになるというものだ。
・・・と、アッシュは思う。
「貴様が納得したならば、貴様にとっては必要な、感情の整理だったのだ。
残された者の感情の整理は、その者ら本人が片を付けるべき問題だ」
「そう・・・、ですね・・・」
そろそろ泣き疲れたのだろう、サーシャの腕で眠り始めたユノを眺めて。
伽藺は静かに頷き、自分も色々と疲れ果てたのだろう、埃だらけの頭を夫に預けて目を閉じた。
◆
カルラから戻って来た連絡によると、こちらに向かうことが出来るのは、空が暗くなってからになるという。
まだ幼い身でありながら、大人と肩を並べて立ち働くというのは、感心しつつも身体の方が心配になる。
けれどそれも彼女が選んだ生き方なのだろうからと、伽藺は雑念を振り払ってアッシュに向き直った。
「出発が夜になるなら、まだ少し時間がありますね。
そういえば貴方は街の外に出たのですよね。・・・砂上艇でも借りて、外を見に行きますか?」
「砂上艇? ああ、何でも構わんぞ。子らも遊ばせよう」
「ええ。・・・もう来れないかもしれない場所だし、目に焼き付けておくのも悪くないです。
狩りのお話もまだ、聞いてはいませんしね・・・」
そうだった、と、アッシュは思い出す。
そもそもその話をするために、伽藺の姿を探していたのでは、なかったか。
「その話も砂上艇でしようか。
砂漠を見ながらの方が、雰囲気も出て良いだろう」
「はい・・・」
そして魔導電話で観光船の手配をすると、ユノを寝かし付けて来たサーシャを目に止める。
「サーシャ様・・・、すみませんでした・・・。
こんなことに巻き込んでしまって。
・・・ユノ様のことに関しては、本当に私の・・・計算ミスでした」
まさか、母の病巣があそこまで、深かったとは。
ユノ単体で見せたなら、自分や希鈴と間違えたのかも知れないけれど、自分が横にいたら間違えようもないだろう、
と・・・伽藺は思っていたのだ。
「いいえ、今回のことはサーシャの、償いでもありましたから。
ユノ様のことも・・・、長い時間を掛けることになるかも知れませんが、私が絶対に元気付けて見せます」
空元気なのだろうが笑顔を見せて、自分を一言も責めないサーシャの包容力に、伽藺は少し泣きそうになった。
「本当に・・・迷惑だけを掛けてしまって、申し訳ありませんでした。
でも、嬉しかったです。・・・私の幼い頃を知るという、貴女に会えて・・・」
サーシャも涙目になり、「こちらこそ、お元気だと知れて、嬉しゅうございました」と、両手を合わせて拝むように頭を下げた。
「もし何でしたらお子たちの事はお任せ下さい、いざとなれば息子夫婦の子ということにしても、育ててみせます」
「・・・そうですね。
どうしても当てが見つからなければ、お願いするかも知れません」
あぁ、どうして。
この老婆は自分にここまで優しいのだろうか。
幼少期に面倒を見たからだろうか? 乳母というものは皆こうなのだろうか?
・・・いや、これは彼女自身の、性格なのかもしれない。
少々先走る部分はあるし、感情的になることも少なくないが、だからこそ子供たちが懐くのだろう。
不器用だが一生懸命な『母』として。
◆
やがて夕刻になり、太陽もずいぶんと地平線に、近付いて来た。。
観光船は思っていたより豪華で、一家族貸切用だったようだが、それでもカルタの砂上艇の数倍はあろうかと思われた。
作業用ではなく純粋に砂漠観覧のために整えられた船内は、装飾も乗り心地も見事で供される食事も最高級だった。
ディナーを終えると砂避けのマントとゴーグル、それからマスクを着けて(ご丁寧に赤子用のものも用意されていた)、
甲板に出て見事な真紅の夕焼けを眺めた。
血のように赤い。どこまでも続く、砂の平原。
ゴーグルの下の瞳で一行は、じっと水平線のような空と砂の狭間を、眺めている。
「赤い・・・。赤過ぎる程の、夕陽の砂漠ですね。
私はここで生まれ、こうして夕陽に包まれて、いたのですね・・・」
双子を夫と分担して抱いていたので、手元に居るアルクを少し上に掲げて、
遠くの砂漠を見えるようにした。
「赤い・・・赤い砂・・・。
よく見てみたら、懐かしいような気にも、なって来ました。
私がここを後にした時期の記憶など、ある筈もないのに・・・ね・・・?」
伽藺に掲げられたアルクは、少々怯えたように母の腕にしがみ付き。
リンネは体を乗り出そうとしていたので、今度は父がその手を高く掲げる番となった。
「リン。よく目に焼き付けたか?
血のルーツである砂漠と、貴様の唯一の祖父母を。
・・・くく、さすがに無理があるか」
不思議そうに手を伸ばしていたリンネではあるが、遠くに見える蜃気楼が掴めないことを知ると、
途端に機嫌が悪くなってぐずり始めた。
アッシュがあやしてもおさまらないので、伽藺の手の中のアルクと交換してみた。
アルクは相変わらず大人しく、見知らぬ風景と船のモーター音を警戒してか、アッシュの胸にしっかりとしがみ付いた。
「・・・もう、ひとつきと少しの命なのに。
今更見聞を深めて、どうするのかと思います。
それでも、出来るだけ貴方と、・・・思い出を重ねたい」
コートの下にくぐらせた瞬間、膨らんでもいない胸元を探り、多少は大人しくなったリンネを抱きながら。
伽藺はアッシュの肩に頭を寄せる。
アッシュはその様子に軽くだけ視線をめぐらせたようだが、
すぐに眼前の赤い砂漠に目をやりながら砂に染み込むような声で伝える。
「かりん。
貴様は肉体としても精神としても若いし、俺のように世界そのものを憎んではいない。
そんな貴様を俺は連れ去ろうという。
・・・恨んでもいい。それでも俺には、貴様だけが必要だ」
「恨む・・・」
今は正直よくわからない。
未来の可能性を摘まれるということも、子供との将来を奪われるということも。
嬉しいとは思わないが、不愉快だと感じるには、まだ臨場感が足りていない。
ただ伽藺はずっと、アッシュのために、生きたいと思っていた。
アッシュの強さに憧れ、弱さを愛おしみ。
だから彼に死ねと言われたなら、彼のために死ぬのは当然なのだ。
「私には何もわかりません。夫がそう決めたから妻として従う、ただそれだけなのです。
貴方を一人にしない。それだけが・・・私のなすべきことなのだから・・・」
二人とも、視線を砂漠から、離さない。
互いの顔を見つめたことろで、マスクにゴーグルにマントの完全武装で、一体誰かさえもわからないからだ。
ただ、ただ。重武装の上からでも感じられる、互いのぬくもりを味わっている。
「悪い父だ、な? ・・・貴様は俺を恨んでくれるか」
アルクは不安そうに見上げ。
乳房がないと納得して、少々不機嫌になったリンネは、マントから顔を出すと「ぅあー!」と怒鳴った。
その時。砂の海で何かがぴょんと飛び跳ねた。
魚のようでいて、そうではない、大柄だか素早い何か。
「まぁ、今見えたのが砂トカゲ、・・・かしら。
貴方は大体あのあたりで、狩りをしていたのですか?」
妻が指差す辺りを見てみる。
正直砂漠などどこがどこだがわからないのだが、指された地点にはトカゲが埋まっている畝が沢山見えた。
ああいう場所が狩場というのならば、ひょっとすればそうなのかも知れない。
「そうだな、確か、その辺りだ」
言って、どれがトカゲの畝だの、捕まえる時は頭を狙うだの、今日仕入れた知識を妻に披露した。
ほとんどはカルタから教わったものだったが、中にはアッシュ自身が体で学んだコツもあった。
伽藺は素直に頷きながら、ちらちらとトカゲの畝に視線をやった。
基本的に何かの理由がない限り、砂トカゲは砂上には姿を現わさない。
知らない人が見ればトカゲが隠れる畝も、単なる砂の海にさざめく波紋にしか見えないだろう。
無数の波、波、赤い波。
その全てに大小さまざまのトカゲが隠れているとは、伽藺はとてもじゃないけれど信じられなかった。
「まあまあの娯楽だったぞ。貴様も食してみれば、よかっただろう。
・・・よく見れば可愛くもなくもない」
「あはは・・・。か、可愛く、なくはない、・・・かな・・・ぁ??」
昨晩のハーブ焼きを思い出し。
「うぅん、確かに鳥と爬虫類は種としては近いところにいるから、肉の味が似ているとは知識としては知っています。
蛇をきちんと血抜きして調理すれば、多少歯ごたえのある鰻のような味になるとも、聞いたことは・・・ありますが。
・・・それでもやっぱり、トカゲは食べたくは、ないです。。。」
がっくりと肩を落とす妻に、そうかと一言だけで遺憾の気持ちを伝えて、
アッシュはマスクを取り外した。
砂埃が強いらしいが、それでもこの熱くて乾いた空気を、胸いっぱいに吸い込んでおきたかった。
数時間程度では肺などは病まないだろうし、病んだとしてもどうせ近々死に向かう身だ。
世界のあらゆる空気を、匂いを、味を。死の世界へと持って行ってやろう。
船が行くに任せて、身を寄せながら砂漠を眺めていると、いつしか空は暗くなり満天の星を散らし始めた。
砂上艇の乗務員がそろそろ街に着くと伝えに来て、サービスにと薄く光る玉の入った幻想的なカクテルを渡す。
聞くとサボテンの一種である発光植物の実で、そのまま噛んで食することも出来るという。
もう砂漠風も止んで静かになったので、ゴーグルやマスクも外していいと伝えられる。
既にマスクを外していたアッシュには少々驚いたようだったが。
酒の味は少し甘めだが濃厚で、光る実は薄く苦みと酸味を備えていた。
「ふむ?
砂国の乾いたイメージにはそぐわん、洒落たサービスだ」
アッシュは皮肉りながら口をつけ、そのままかりんの肩に腕を回すと子供ごと抱き締め、
夜景に中に浮かぶ街の・・・幻想的な灯りを愉しむ。
「・・・帰る刻か」
名残は惜しいが、まぁ大体やりたいことはやったし、それなりに愉しめた。
あとは風呂で砂埃と汗さえ落とせば、もうこの街に思い残すことは無いだろう。
◆
帰宅すると、仕事を終えたらしいカルラが来訪していて、ぐったりと机に突っ伏していた。
もう夜も更けている。8歳ほどの子供からすれば、眠ってもおかしくない時間である。
カルタも共に来ていて明らかにしゅんとした顔で、
「アッシュもう帰るノカ・・・。明日の狩りハ行かないノカ?
明日はカリンも誘おウト思っテたのニナ・・・」と、長槍を弄びながら俯いている。
「はは、兄と遊びたかったか?
残念だな。かりんは俺と帰るのだ」
意地悪くカルタの巻き毛頭をこづくと、「もーーーっ!!」と少女もぽかぽかとアッシュを叩く。
いつの間にこんなに仲良くなったのだろうと、伽藺は『狩り』というスポーツが持つ力に、
しばし感嘆した。
さて、いつまでも幼い妹を、待たせるわけにはいかない。
二人は手早く風呂を借り、赤子たちも老婆と孫娘に身支度を任せると、少女たちに誘われるまま庭に出た。
「来た時と同じように、魔法陣を描いて、戻るのですか?」
カルラが消耗した様子でこくりと頷く。
というより半分眠り掛けているのかもしれない。
「大丈夫なのか?」とアッシュは指差したが、「サぁ?」とカルタは能天気に笑うだけだった。
と、庭木の陰から、人影が姿を現わした。
旅装に身を包んだそれは、布に包んだ人一人ほどもある大きな荷物を抱え、椰子の影に佇んでいたようだ。
「なんだ、誰かいるようだぞ」
「えっ・・・」
その人物をじっと見つめ伽藺は小さく叫んだ。
「ち・・・、父上・・・!? 一体・・・、どうして・・・??」
アッシュがスッと伽藺の前に立ち、庇うように義父を見据えた。
外見年齢は20歳ほど、実年齢は20代後半。
夫との間に男女の双子あり。
性格はおっとり。
行動は良く言えば優雅、悪く言えばどんくさい。
少し急ぐとすぐ転ぶ。
ネバーランド・ナハリ国の軍務省にも補佐官として所属している。
ユエルティートという名の少女を、小鳥と思い込んでペットとして飼っていたことがあり、
人の姿を現した今でも、娘代わりとして可愛がっている。
義兄にはウィルフェア氏とティーラ氏。氏の家族や同居人諸氏とも懇意で、何かとお世話になっている。
お茶が大好きでお茶菓子も好き。
甘党で大食漢。カロリーコントロールを言い渡されるレベル。