「やはり、追手の可能性をもう少し、深刻に考えれば良かったか?」
その大きな背中に伽藺を庇い呟くアッシュ。
しかし示蓮は、旅装のフードを落とすとその顔を露わにして、静かに頭を横に振った。
そして抱えている大荷物に巻いた布も落とす。そこに眠っていたのはカテリーンだった。
「は・・・、母上・・・!?」
「どういうことだ?」
静かに視線をカテリーンに移し。しばらく慈しむように眺めてから、示蓮が重い口を開けた。
「貴殿らと共に、連れて行って貰いたい」
「・・・・・・!」
伽藺の表情に緊張が走る。
「何を言っている、そのようなこと、出来るはず・・・」
「いいえ、いいでしょう」
「・・・かりん?」
アッシュが驚いて聞き返したが、伽藺は緊張した表情を崩さないまま、じっと父を見つめていた。
「多分、考えていることは、私と同じなのでしょう。
母上の夢を・・・幻想を打ち砕くには、その一番の原因を目の当たりに、しなければならない」
こくり、と。重く示蓮は頷く。
「・・・しかし、暮蒔の里には、連れて行けない。
あそこに行って平静でいられるほど、母上の心の傷は癒えていない・・・」
さらに頷く。
「だから・・・」
緊張が最高潮に達し。張り詰めた空気がアッシュや姉妹の肌を裂く。
「私たちの元に彼らが訪ねるであろう時。同席して・・・母上を、・・・希鈴と面会させようと」
「・・・・・・」
示蓮の瞳は静かだったが、強い意思を秘めていた。
衛士長とはいえ重要人物を連れ出してきたのだ、然るべき手順と手続きを踏んで来たのだとしても、
その間にカテリーンに何かあれば責任を問われるのは明白であろう。
それでも。
彼はもしもの時には全てを負う覚悟で、狂った妻を抱えてやって来たのだろう。
その狂気を癒せる『かも知れない』、唯一といえる材料を求めて・・・。
「『逃げられる牢』に、入れていただいたお礼も、しませんとね」
伽藺は悪戯っぽく舌を出してみせる。
「無茶を考えることだ、親子揃ってよくもまぁ。
・・・劇薬に過ぎるかも知れないと考えることは無いのか?
それに向こうの土地はこちらとは、気温も湿度もまったく違う。
病人が急激な空気の変化に、耐えられなければどうするつもりだ」
「それ・・・でも・・・」
示蓮はこの上ない慈しみを込めながら、布の間に覗く妻の寝顔を見つめる。
「醒めない悪夢の中よりは、きっとましだと・・・思うから」
顔を上げ今度はアッシュを真っ直ぐに見た。
「あの後。夢見様・・・いやカティは、混乱が収まるとひどく消耗して危機状態に陥ったのだが、
レオン殿にいただいた栄養剤を使わせて貰ったら、ほんの数時間で意識を取り戻したのだ。
今はよく眠っている」
「ほう・・・」
感心したような声を上げて、アッシュは示蓮の腕の中を覗き込む。
「やはり親子、かりんが妖と化したりして変貌したとはいえ、ヒトの部分においての根幹の体質は
似通っていたか。
・・・多少なりとも義父母上に貢献はできたわけだ」
アッシュは傍若無人ではあるが、最愛の妻をこの世に送り出した義両親に対しては、敬意は払っているらしい。
それに、愚直なまでに一途に義母を護ろうとする、義父の姿勢にはシンパシーさえ感じていた。
「そうだな、感謝している。
そして今までは、神殿から動かすことさえ躊躇っていたが、この薬があれば可能かとも思う。
カティとも話して決めた」
それが結果的に彼女の命を縮めることになったとしても。
悪夢を破りたい。呪縛から解き放たれたい。
「このまま何もせず、明日にも訪れるかも知れない死を待つよりは、命の灯のある限りもがいてみたいんだ。
私も・・・カティも・・・」
夜風に遊ぶカテリーンの髪を撫でながら、噛み締めるようにゆっくりと示蓮は告げると。
ふとカテリーンが目を覚まし、そんな夫の頬をゆったりと撫で、幸せそうな薄い笑いを浮かべた。
・・・伽藺も、自分の手を握る暖かい感触に、視線を手元に向けて・・・そして夫の顔を見た。
「貴方・・・」
何か思うところがあったのだろうか、アッシュの大きな手はしっかりと、伽藺のそれを握り締めていた。
相変わらず表情が伺い難い顔立ちだが、口元が少し笑っているような気がした。
伽藺もしっかりとその手を握り返す。
「貴方が持たせて下さった薬のおかげで、私は親殺しにならずに済んだようです」
◆
半寝状態のカルラが地面に描く、魔法陣の真ん中に全員が乗ってからトラテペスに着くまでは、
やはり一瞬であった。
焼けた砂が乾いた風を吹かせる砂漠の土地から、潮の香りを乗せた空気が満ちるトラテペスの海岸に着く。
転移術に未だ懐疑的であるアッシュは、苦虫を噛み潰したような顔を崩さなかったが、
とある疑問に思い当たって伽藺に問うた。
「そういえば、砂上艇などの観光サービスがあったということは、旅行者もそれなりに多いのか?
やはりいちいちこんな怪しげな術を使って、移動しているというのだろうか・・・」
夫の呟きに伽藺が返す。
「神と共に封じられていたというのは、過去の時代の話のようです。
今は外からの干渉も受けるようだし、旅行者も移住者もいるようですよ」
「神と共に?」
伽藺は一つ息を吸い、かつて叩き込まれた知識を思い出すと、ゆっくりと空んじ始める。
「エディンは元々、古代文明が栄えていた頃のオールド大陸からの移住者、
・・・侵略者なのかな・・・の集落で。
そして後には、聖神アースを封じる牢獄として、世界より切り離された土地だったはずです。
アースは今となってはコリーアなどと違い、よくよく現世に姿を現す神となっているでしょう?
かつて呪われた天使として縛られていた彼を、その呪縛を解いて自由に動けるよう解放したのが、
エディンに住む一人の少女だということらしいのですが。
その時からエディン自体の封印も解け、現世にある大陸と自由に行き来出来るようになった、
・・・というお話です。
10年でしたっけ、20年でしたっけ、まだ比較的新しい歴史のはず。
え・・・と・・・。確か魔導世紀1027年の出来事だったかなぁ。じゃあ15年になるのかな」
15年前の出来事であったとしても、正式な歴史として編纂されるには、さらに数年のタイムラグがある。
アッシュが学舎で歴史として学ぶには、タイミングがずれていたらしく、初めて聞いた話のように驚いていた。
アース教の教会に通って説法でも聞いていたなら、耳にしたこともあったかも知れないが・・・。
かくいう伽藺も10年前のツェンバー仕官の際に、上司から教わった歴史を思い出しているだけだったので、
細部を誤っている可能性もあった。
「開放されてからはNL大陸との交流も活発になったようです。
人種が『エディン人』とされる人々の中にはかつてのエディン人・・・、
オールド大陸でゼノン人と言われていた者たちの末裔だけではなく、実際にエディンの地から出て来た者も、
いるのでしょう。
ちなみに計算すると、私の生まれた時期にはまだ解放が行われていませんでしたから、
私の父はまだイレギュラーな迷い人だったということになりますね。
妖界と現世を渡りながら仕事をしていた関係なのでしょうかね・・・」
「成る程な」
深く頷くアッシュの様子を見て小さく笑うと、伽藺は熟睡している赤子の様子を確かめ、
星に彩られた夜道を通って住み慣れた屋敷の門戸をくぐる。
「夏の夜なのに・・・。砂漠の真ん中に比べるとやはり、少し肌寒いくらいに感じますね。
もう夜も遅いですし、宿を探すのは明日からにして、今晩はうちの客間にお泊まり下さいな。
一応は入院施設もありますから、もし母上の容態が急変しても、対応は出来ると思います」
アッシュに了承を得ると、伽藺は双子を寝かし付けるべく、屋敷の子供部屋へと向かった。
妹たちは待合室に通されて、冷たいジュースを飲みながら寛ぎ。
示蓮は、一刻も早くカテリーンを休ませたいと、アッシュに寝床への案内を頼んだ。
◆
消耗の具合から点滴を施した方がいいだろうと、まずは処置室に運んだアッシュの後に続いた示蓮は。
最新鋭とは言えないまでも、一通りの医療器具が揃った処置室を眺め、静かな声で切り出した。
「・・・レオン殿。
間借りをする身で、こういった頼みをするのも気が引けるのだが、貴殿にお願いしたいことがある」
処置の準備をしていたアッシュの瞳が、表情を映さないままに義父に向けられる。
「カティが・・・妻が、現状どのような状態なのか、本当にもう手の施しようはないのか。
正式に調べていただきたいのだが」
エディンにも医者がいるにはいるが、そのほとんどがいわゆるウィッチドクターのようなものであり、
解剖学的見地からの検査や診断は難しいのだという。
しかも相手は夢見師である。
神殿の中では下手にことを起こせば不敬に当たり、思い切った検査や治療を行おうとする者は、誰もいなかった。
針を刺したりメスを入れることなど、発言さえも許されない雰囲気だったのだ。
しかし、万にひとつでも回復の可能性があるなら、示蓮はその手段を試してみたいと言う。
勝手に大きくなる夢見師の名前、そして娘のプロデュースを経て発展してゆく神殿の規模に、
彼はずっと恐れていたのだという。
そのうちカテリーンというただのか弱い女性は、ごく普通の者ならば享受できる筈の恩恵さえも受けられず、
形だけの崇拝を受たまま見殺しにされるのではないかと。
アッシュからしても、現状のカテリーンの状態や決定的に体調を崩した時の話を聞き、
ひょっとすれば処置の可能性はあるのではないかと思っていた。
とはいえ単なるカンのようなものであったし、もし当たっていたとしても治療に必要なものが、
簡単な薬や医療機器ではなかったので、口には出すべきでないと判断して黙っていた。
「俺は・・・、貴様らのむすm・・・」
つい本音が出掛けてしまい慌てて言い直す。
「・・・息子以外を治療することなど滅多にないのだが。
俺に医師として語りかけるならば、俺も医師として忠告しよう」
静かな語り掛けと静かな頷き。
・・・無口な男同士の、静寂でシンプルな交流が、そこにはあった。
「さすがに既知とは思うが、如何に身体が回復しようと、狂気が治ることなどないぞ。
一時的に安定させることはできるが、心の病には一生涯付き合うことになる。
貴様らの息子も、同じだった。
あれは・・・かつて、狂気に苛まれていた。死にたいと願っていた、・・・らしい。
俺との暮らしも、普通の神経を持つ者にとってみれば、死んだ方が楽なものだったのかもしれん。
しかしあれにとっては、むしろ快適な生活であったようだ。
死に行く者、死にたいと願う者、生を苦痛と感じる者。
そういった意思を持つ者を、愛しているからというだけのエゴで、生き永らえさせようとするならば、
必要な根気は相当なものとなる。無論、本人の強い意志を喚起する必要もある。
・・・それを覚悟してのことか」
過去のトラウマやフラッシュバックに、狂乱する伽藺を支えて立ち直らせ。
『幸せ』という言葉を引き出すまでには、アッシュも随分と労力を払ったかと思う。
その時その時は必死だったので、特に苦労だと感じたことは無かったのだが、
思い返してみればそれは全て、彼の強靭な意志があったからこそ、出来たものだと思えたし。
同じことが常人に出来たかというと、客観的に考えれば難しいのではないか、と判断していた。
義父の物静かな蒼紫の瞳を、じろりと奥まで覗き込む。
「そう・・・だな・・・」
示蓮はアッシュの言葉を噛み締めながら、自分と妻が送って来た人生に想いを寄せる。
「生涯付き合い、支えてゆく覚悟というなら、それはあるつもりだ。
いや・・・なくてはならない。彼女がああなったのは、私の非力がゆえなのだからな」
瞳はアッシュを見返すわけでもなく、ただ、もっと遠くの場所を見ている。
「それでも私はまだ未来を夢見ている。
私たちはすっかり年老いた。それでも助かる可能性がないか、逃げ出す隙はないものかと。
今回、もう一生会えないかと思っていた、伽藺に会えた。
これで希鈴に会えれば、ひょっとしたら・・・と、甘いかも知れないが希望を抱いている」
言った表情は少しの後悔と自嘲を含んだ微笑で、伽藺がアッシュと出会わないままに成長すれば、
こうなったのではないかと思う程度にはやはり似ていた。
「ふむ・・・」
吟味するようにアッシュが頷く。示蓮はその相槌に促されるように続けた。
「魔法や呪いではない。
純粋に私が彼女を振り回し、傷付け狂わせた結果、こうなってしまったに過ぎない。
それでも。・・・エゴだとは思うが私は彼女が、私を愛するゆえにこうなったことを、
どこか嬉しくも思うのだ。・・・酷い夫だとは思うが」
そういえば伽藺も、傷付けたい訳ではないが自分のために傷付いてくれるのは嬉しい、と言っていた。
モラリストゆえ、相反する愛と欲望に悩むところは、妻は父親に似たのかも知れない。
「だが、娘や息子たちを哀しませたまま、終わらせたい訳でもない。
ひょっとすると今回のことで、正気が戻ったとしても、
娘たちや息子との、あったはずの愛を取り戻す、それにはまだ時間が必要だ。
・・・命、という名の、時間が」
言うと『喋り過ぎただろうか』という顔で、首を巡らし視線を逸らせた。
「・・・・・・。分かった、とりあえず検査は行おう。
必要量の生体組織さえ採取できれば、義母上も義父上も休んでいて構わん。
ひと晩もあれば概ねの結果は出るだろう」
ただし、と。低い声で改めて告げる。
「これは個人的なことになるが、検査や治療の結果、命を永らえたとしても、
俺は俺の妻を傷つけるものを許さない。
如何に義母上といえど今後、妻が傷つくような言動を取るようなことがあれば、
相応の処置はとらせてもらうから、そのつもりでな」
「心得た」と示蓮は頷く。
表情は神妙であったがその実、自分たちの子は本当に大切にされているのだと、
ほのかな嬉しさを感じていたのも事実だった。
「まずは何処がどう悪いか、調べて貰えるだけでいいかと。治療は結果次第で考える。
謝礼・・・は・・・」
少し口ごもり、考えながら口を開く。
「金品なら多少は持って来ているが、今の貴殿らに渡しても仕方がないだろう。
なので、孫たちを預かる話が決まったとしたら、その分・・・。
彼らには不自由はさせないと約束する」
「・・・・・・。分かった。価値の在る取引きだと言えよう」
アッシュとて。
置いていくことを決めはしたものの、伽藺と共に生み育てた子供たちは、大事であった。
偽り無くそれを約束されるとするならば、これで後顧の憂いが断たれることになる。、
「魔法だとか呪いとか、訳の分からんものでなければ、これでも概ねの病は治療できる。
まあ魔法でもここ数年齧ってはきたため、少々ならわかるかもしれんが生憎専門ではない。
・・・さて、邪魔だ、出て行け」
旅装を脱ぎ捨て身の埃を払うと、普段の白衣に着替えて、医療器具の準備を始めた。
「あぁ、頼む」
示蓮も頭を深く下げて退室しようとするが、ふと気付いたように踵を返して告げた。
「診たらわかると思うが妻は歩けない。
なので移動の必要があるなら、私が眠っていても起こしてくれて構わない。
あと、起き抜けに知らない人物がいたら、錯乱するかも知れないが・・・」
じっと、頭一つ近く高いところにある、アッシュの黒い顔を顔を眺めながら。
「いや、レオン殿は外見的には砂漠の民に近いな、大丈夫か」
と、呟いて一つ息を吐き。再び頭を下げて退室した。
深緑の髪はところどころに白い埃の玉がつき。
這いずったように肌は汚れ。
この辺りの普段着らしい風を通す薄手の服は、擦り切れたり裾が千切れたりしている。
しかし人為的なものではなく、あくまで移動の途中に、そうなったのだろう。
状況を鑑みて、牢から脱獄してきたのではと、思わざるを得ない格好だった。
「いやぁ、あはは。貴方が帰って来るまでには、戻ろうと思っていたんだけどなぁ
ええと。ト・・・トカゲ狩り、楽しかったですか?」
叱られる寸前の子供みたいな目つきで、伽藺は上目使いに見上げている。
アッシュは次に伽藺の顔を見た時、自分は先行の理由も聞かず、怒鳴りつけてしまうのではないかと危惧していたが、
意外にも自然に抱き締めてはその背中を撫でていた。
「・・・かりん。
一人で危険を犯すなと、叱りたいところだが、先ずはよく戻った」
そしてもう逃がさないよう、ひょいと抱え上げて片腕に座らせる。
男の身では長身な方の伽藺だが、軽々と抱え上げられることになり、少々慌てて降ろして下さいと呟いた。
「恥ずかしいと思うなら、これが俺からの罰だ」と、意地悪くアッシュは笑う。勿論、降ろしはしない。
「貴様はまったく、無茶をする。
狂わせた要因の一端に、自責を感じたか? 拒否された子を、自らと重ね合わせたか?
・・・しかしまあ、後悔のないよう行動を起こすというのには、感嘆する」
がしがしと頭を撫でる。普段は大人しいタイプの妻が、思い切った行動に出たのだ。
振り絞った勇気は、生半可ではないだろう。
「すみません・・・」と妻は勝手な行動を夫に侘び、その理由をぽつぽつと話した。
「危険にはならないという、目算があっから、行ったことでもあるのです。
貴方を巻き込めば多分、事態は余計に難しくなると思って。
・・・多分、私だけでないなら衛士長・・・父も、他の衛士を下がらせて一人だけで捕縛という訳には、
いかなかったでしょうし。
無傷で捕らえて、比較的脱出の容易な牢に閉じ込めるという判断も、許されなかったかと思うのです」
話を聞くアッシュの表情が、どんどん渋いものになってゆく。
「そうか・・・、そうだな・・・。
そういった計算の上なら、話をしてから行けと言いたいが、話があれば確かに俺は止めただろう。
そして、余計なことをしただろう。
黙して貴様を捕縛などさせる訳がないしな?」
聞けば聞くほど、今回に限っては自分の出る幕は、無かったのだと思わされる。
伽藺を守るためにいる筈が、全くもって隠密行動や防諜行動に関しては、自分は役立たずだ。
そんな夫の落ち込みを察してか、伽藺が慌ててフォローを入れる。
「いえいえ、私、妖怪ですから!
鼠が侵入出来る程度の隙間があったら、脱出することが出来ますからね」
体質上の問題だと、伽藺は言いたいのだろう。
「私としても目算はありましたものの、確率的には良くて80%程度かな、と思っていましたし。
まず父が職務よりも、親子の情を優先させる方かどうか、という賭けでもありましたね。
そういう意味では、20年以上離れていたという部分は、大きなマイナス要因でしたもの。
・・・まぁそもそも私を、人用の普通の牢に入れること自体、逃げろと言っているようなものでしょうが」
そんなに低かったのか、と、今さらながらにアッシュは、伽藺が赴いた行動の危険性に驚く。
90%だろうが95%だろうが、100%ではない限りアッシュにとっては、危険な賭けであった。
たとえ1%以下であろうと、最愛の妻を失う可能性のある賭けに、乗る訳には行かない。
「あまり、心配を掛けるな」
抱き寄せる腕に力を込める。
妻を失ってしまった場合の自分を想像したのだろうか、その表情は捨て子のように不安気に歪められていた。
「・・・ぁ・・・」
締め付ける腕の些細な痛みを感じて伽藺は、どれだけ夫が焦っていたのかを改めて知った。
「お出掛けの間に出て、帰って来るつもりだったのですが、あは・・・」
夫の頭を包むように抱き締めて、そのふわりとした癖毛を指で梳く。
妻に少し子供扱いされているような気がして、アッシュはばつが悪い気持ちになったが、
いつまでも落ち込んでいるのは自分に似合わないと思った。
特にここには妻だけでなく老婆と子供もいるのだ。
隠密行動は得意ではないが他については、頼れるのだというところを見せないと、面目が丸つぶれだと思い。
妻を腕から降ろして背筋を伸ばす。
「さて、どうする。追っ手があるならば逃げるぞ。
転移の術を得んと帰れんというならば、その機会を得られるまで身を隠そう。
その必要がなく、話し合いの余地があるというならば、同伴の上で貴様の父の元に赴こう。
今度は捕らえさせなどせん」
夫は繊細な部分の在る人物であるが、動かねばならない時には全ての問題を投げ打ち、前を見据える強さがある。
そういったところが、落ち込み易い伽藺には、心強い部分であった。
「むしろ、今度また捕らえられるようならば、無理にでも連れて帰るぞ。わかったな?」
「はい・・・」
伽藺は薄く笑い、目算も含めた状況を、整理した。
「追っ手は無いと思います。父上からしても対外的な目を気にして、牢に入れただけなのだろうし。
けれど多分これ以上は、私にも何も出来ません。
たとえまたうまく忍び込めたとしても、母にこれ以上の問題提起に耐える体力は無いだろうし、
父もさすがにもう庇うことは出来ないでしょう」
「そうか・・・」
「帰るしか、ないかな・・・。
子供たちのことは、残念だけどこのまま預けるのは、難しそうだし。
さすがに積極的に捕らえようとする程ではないでしょうが、ここにいても迷惑がかかるかも知れませんから」
傍らでサーシャにしがみ付いているユノに、「傷付けてしまっただけだったね、ごめんね」と呟き、頭を撫でた。
実母から拒絶されたショックから立ち直っていないのか、ユノは俯くだけで返事を返すことすら出来なかった。
サーシャには、帰還のためにカルラに、連絡を取って貰うよう頼む。
さすがに、幼くとも仕事を請け負っている身なので、すぐにという訳にはいかないだろうし、出発は夜になりそうだった。
「しかし理解に苦しむ連中だな。
如何に神聖といえ、取り乱しただけで相手を捕縛とは、俺ならば想像すらできん」
「そこまでして、守る必要があるのでしょう。『夢見師』という存在が持つイメージを。
実際以上に多大な能力と、そして過剰な権力を演出する。
そうして反意を持つ者が現れる前に、その牙を抜いておくのでしょう」
伽藺の声音にはほろ苦い響きがあった。
それが表面的に教団を統べている両親ではなく、妹が決めた方針なのだろうと思うと、
何ともやるせない気持ちになってしまうのだった。
「・・・そうか。権力の演出・・・な」
どこにもあるものだなと、アッシュは思う。
◆
彼の故郷はとある南の大国。
生家は医療についての名門と言われる、とある有名な家系の本家筋であった。
国土に点在する膨大な数の病院と、国外の治療院までもを保持する医療富豪。
それこそ対外イメージとしては、『白衣の天使』という言葉に重なる、クリーンなものだったろう。
しかしその実際がどういうものだったかは、内側で育ったアッシュには見えていた。
名誉欲と権威欲に彩られた醜い老人---祖父。
外見が醜かったという訳ではない。
寧ろダークエルフという種族特性上なのだろう、実際の年齢よりは若くて溌剌としていたように思う。
尤も、あの老人が実際に何年ほど生きていたのかは、アッシュ本人の知ったことでは無かった。
ひょっとすれば数百年ほどは生きていたのかも知れない。
彼はその権力でもって次々と若い妻を娶り、生まれた子供を自らの駒として、あらゆる医療機関に送り込んでいた。
妻たちは健康な子を生める若さを失った頃に、祖父の屋敷から姿を消していたかと思う。
どうなったかなどは知らない。
権力に惹かれて集まるような女たちだ、数十年程も遊べる金を手渡せば、快く妻の座を明け渡すことだろう。
・・・老獪なあの祖父が、財産を切り崩さねばならないような別れ方を選んだかどうかは、
深く考えるほどに、きな臭い思考にしかならないので、考えないことにしているが。
そして何より祖父の側には、若くて美しいその時々の妻たちではなく、常にアッシュの母が控えていたように思う。
これがまたあの祖父に輪を掛けて、狡猾で残酷な女だったように思う。
恐ろしいほどに頭が切れ、行動力もずば抜けてあり。その才能の全てを野心と野望のために掛けているような。
そんな母であった。
容姿は自分に似ていたように思う。祖父にも似ていたからひょっとすると、一族のうちの出身だったのかも知れない。
心身に障害を持つ父を蔑み、精力的な祖父に心酔しその手足となって、日々忙しく立ち働いていたことから、
幼少のアッシュはひょっとして自分の実父は、祖父なのではないかと考えたこともあった。
すぐに、そんな興味は持っても仕方がないことだと、頭の内から追い払ったが。
幼き日のアッシュの学力の高さに、祖父は将来が嘱望できると喜んだが、母は言語能力の遅滞がみっともないと蔑んだ。
心酔している男の血を引く子ならばもうちょっと、その成長の具合にも興味を持つのだろうから、
事実はどうあれ母にとって自分は父と同程度の『イキモノ』なのだと。
そう納得したのは、10になった頃か、どうだったか。
祖父だって期待するといいながら、滅多に顔を見せるものでも無かったし、直接声を掛けられることも無かった。
ただ金だけは湯水のごとく与えられ、軽く一人ごちただけで翌日には、欲しいものが届けられる。
それもこれも、期待の気持ちの表れなどではないことを、アッシュはその肌で読み取っていた。
『名門』の名を穢さないがために。
一族の者・・・特に後継者となる可能性のある者には、食うにも学ぶにも不自由させたことはないと。
胸を張って周囲に嘯くためのものなのだった。
また、医療の世界に清らかな家名を、轟かせながら。
裏社会のビジネスにも太いパイプを持っていたことを知っている。
というよりも、あの国で医療関係者としてある程度の高みにまで登った者なら、誰だって知っている話だった。
薬品流通・細菌実験・そして・・・死体ビジネス。
あの立場を以ってしか出来ない、あの立場だからこそ作り上げられた、黒い聖域。
それでもあえて関係者への口止めはせず。ただ、裏切った者にのみ社会的に、制裁を加えてゆくやり方。
真白き姿を維持しながら、黒い噂を強くは否定せず、ただ、強く噛み付いた者は『不思議な事故』で消えて行く。
あれも・・・『イメージの演出』の一つだったのだろう。
やがて、『イメージ』に合わせることが出来なかった自分は、いとも簡単に捨てられた。
---なんということだと、額を押さえてクククと笑う。
アッシュと伽藺。自分と妻は真逆の特性を持っており、似ているところなどは無いかと思っていた。
なのに、妻の故郷を覗いてみれば次から次へと、仕舞いこんだ過去を抉るような事件が起きる。
まったく、本当に。愉快で仕方が無い。
どうやら妻とは本当に、出会うべくして出会った、魂の半身だったのかも知れない。
「納得は、したか?」
問うと伽藺は小さく頷いた。
「結果的に、残念ではあったけれど、心残りはありません。
申し訳ないなと思うのは、私の納得に弟を利用して巻き込んで、傷付けちゃったかなということだけ」
「必要な傷だろう」
いかに傷付けないために吐かれた嘘とはいえ、真実を知るのが後になればなるほど、傷跡は深くなる。
状況に期待が持てないのならば、最初から現実を突き付けておいた方が、よほど子のためになるというものだ。
・・・と、アッシュは思う。
「貴様が納得したならば、貴様にとっては必要な、感情の整理だったのだ。
残された者の感情の整理は、その者ら本人が片を付けるべき問題だ」
「そう・・・、ですね・・・」
そろそろ泣き疲れたのだろう、サーシャの腕で眠り始めたユノを眺めて。
伽藺は静かに頷き、自分も色々と疲れ果てたのだろう、埃だらけの頭を夫に預けて目を閉じた。
◆
カルラから戻って来た連絡によると、こちらに向かうことが出来るのは、空が暗くなってからになるという。
まだ幼い身でありながら、大人と肩を並べて立ち働くというのは、感心しつつも身体の方が心配になる。
けれどそれも彼女が選んだ生き方なのだろうからと、伽藺は雑念を振り払ってアッシュに向き直った。
「出発が夜になるなら、まだ少し時間がありますね。
そういえば貴方は街の外に出たのですよね。・・・砂上艇でも借りて、外を見に行きますか?」
「砂上艇? ああ、何でも構わんぞ。子らも遊ばせよう」
「ええ。・・・もう来れないかもしれない場所だし、目に焼き付けておくのも悪くないです。
狩りのお話もまだ、聞いてはいませんしね・・・」
そうだった、と、アッシュは思い出す。
そもそもその話をするために、伽藺の姿を探していたのでは、なかったか。
「その話も砂上艇でしようか。
砂漠を見ながらの方が、雰囲気も出て良いだろう」
「はい・・・」
そして魔導電話で観光船の手配をすると、ユノを寝かし付けて来たサーシャを目に止める。
「サーシャ様・・・、すみませんでした・・・。
こんなことに巻き込んでしまって。
・・・ユノ様のことに関しては、本当に私の・・・計算ミスでした」
まさか、母の病巣があそこまで、深かったとは。
ユノ単体で見せたなら、自分や希鈴と間違えたのかも知れないけれど、自分が横にいたら間違えようもないだろう、
と・・・伽藺は思っていたのだ。
「いいえ、今回のことはサーシャの、償いでもありましたから。
ユノ様のことも・・・、長い時間を掛けることになるかも知れませんが、私が絶対に元気付けて見せます」
空元気なのだろうが笑顔を見せて、自分を一言も責めないサーシャの包容力に、伽藺は少し泣きそうになった。
「本当に・・・迷惑だけを掛けてしまって、申し訳ありませんでした。
でも、嬉しかったです。・・・私の幼い頃を知るという、貴女に会えて・・・」
サーシャも涙目になり、「こちらこそ、お元気だと知れて、嬉しゅうございました」と、両手を合わせて拝むように頭を下げた。
「もし何でしたらお子たちの事はお任せ下さい、いざとなれば息子夫婦の子ということにしても、育ててみせます」
「・・・そうですね。
どうしても当てが見つからなければ、お願いするかも知れません」
あぁ、どうして。
この老婆は自分にここまで優しいのだろうか。
幼少期に面倒を見たからだろうか? 乳母というものは皆こうなのだろうか?
・・・いや、これは彼女自身の、性格なのかもしれない。
少々先走る部分はあるし、感情的になることも少なくないが、だからこそ子供たちが懐くのだろう。
不器用だが一生懸命な『母』として。
◆
やがて夕刻になり、太陽もずいぶんと地平線に、近付いて来た。。
観光船は思っていたより豪華で、一家族貸切用だったようだが、それでもカルタの砂上艇の数倍はあろうかと思われた。
作業用ではなく純粋に砂漠観覧のために整えられた船内は、装飾も乗り心地も見事で供される食事も最高級だった。
ディナーを終えると砂避けのマントとゴーグル、それからマスクを着けて(ご丁寧に赤子用のものも用意されていた)、
甲板に出て見事な真紅の夕焼けを眺めた。
血のように赤い。どこまでも続く、砂の平原。
ゴーグルの下の瞳で一行は、じっと水平線のような空と砂の狭間を、眺めている。
「赤い・・・。赤過ぎる程の、夕陽の砂漠ですね。
私はここで生まれ、こうして夕陽に包まれて、いたのですね・・・」
双子を夫と分担して抱いていたので、手元に居るアルクを少し上に掲げて、
遠くの砂漠を見えるようにした。
「赤い・・・赤い砂・・・。
よく見てみたら、懐かしいような気にも、なって来ました。
私がここを後にした時期の記憶など、ある筈もないのに・・・ね・・・?」
伽藺に掲げられたアルクは、少々怯えたように母の腕にしがみ付き。
リンネは体を乗り出そうとしていたので、今度は父がその手を高く掲げる番となった。
「リン。よく目に焼き付けたか?
血のルーツである砂漠と、貴様の唯一の祖父母を。
・・・くく、さすがに無理があるか」
不思議そうに手を伸ばしていたリンネではあるが、遠くに見える蜃気楼が掴めないことを知ると、
途端に機嫌が悪くなってぐずり始めた。
アッシュがあやしてもおさまらないので、伽藺の手の中のアルクと交換してみた。
アルクは相変わらず大人しく、見知らぬ風景と船のモーター音を警戒してか、アッシュの胸にしっかりとしがみ付いた。
「・・・もう、ひとつきと少しの命なのに。
今更見聞を深めて、どうするのかと思います。
それでも、出来るだけ貴方と、・・・思い出を重ねたい」
コートの下にくぐらせた瞬間、膨らんでもいない胸元を探り、多少は大人しくなったリンネを抱きながら。
伽藺はアッシュの肩に頭を寄せる。
アッシュはその様子に軽くだけ視線をめぐらせたようだが、
すぐに眼前の赤い砂漠に目をやりながら砂に染み込むような声で伝える。
「かりん。
貴様は肉体としても精神としても若いし、俺のように世界そのものを憎んではいない。
そんな貴様を俺は連れ去ろうという。
・・・恨んでもいい。それでも俺には、貴様だけが必要だ」
「恨む・・・」
今は正直よくわからない。
未来の可能性を摘まれるということも、子供との将来を奪われるということも。
嬉しいとは思わないが、不愉快だと感じるには、まだ臨場感が足りていない。
ただ伽藺はずっと、アッシュのために、生きたいと思っていた。
アッシュの強さに憧れ、弱さを愛おしみ。
だから彼に死ねと言われたなら、彼のために死ぬのは当然なのだ。
「私には何もわかりません。夫がそう決めたから妻として従う、ただそれだけなのです。
貴方を一人にしない。それだけが・・・私のなすべきことなのだから・・・」
二人とも、視線を砂漠から、離さない。
互いの顔を見つめたことろで、マスクにゴーグルにマントの完全武装で、一体誰かさえもわからないからだ。
ただ、ただ。重武装の上からでも感じられる、互いのぬくもりを味わっている。
「悪い父だ、な? ・・・貴様は俺を恨んでくれるか」
アルクは不安そうに見上げ。
乳房がないと納得して、少々不機嫌になったリンネは、マントから顔を出すと「ぅあー!」と怒鳴った。
その時。砂の海で何かがぴょんと飛び跳ねた。
魚のようでいて、そうではない、大柄だか素早い何か。
「まぁ、今見えたのが砂トカゲ、・・・かしら。
貴方は大体あのあたりで、狩りをしていたのですか?」
妻が指差す辺りを見てみる。
正直砂漠などどこがどこだがわからないのだが、指された地点にはトカゲが埋まっている畝が沢山見えた。
ああいう場所が狩場というのならば、ひょっとすればそうなのかも知れない。
「そうだな、確か、その辺りだ」
言って、どれがトカゲの畝だの、捕まえる時は頭を狙うだの、今日仕入れた知識を妻に披露した。
ほとんどはカルタから教わったものだったが、中にはアッシュ自身が体で学んだコツもあった。
伽藺は素直に頷きながら、ちらちらとトカゲの畝に視線をやった。
基本的に何かの理由がない限り、砂トカゲは砂上には姿を現わさない。
知らない人が見ればトカゲが隠れる畝も、単なる砂の海にさざめく波紋にしか見えないだろう。
無数の波、波、赤い波。
その全てに大小さまざまのトカゲが隠れているとは、伽藺はとてもじゃないけれど信じられなかった。
「まあまあの娯楽だったぞ。貴様も食してみれば、よかっただろう。
・・・よく見れば可愛くもなくもない」
「あはは・・・。か、可愛く、なくはない、・・・かな・・・ぁ??」
昨晩のハーブ焼きを思い出し。
「うぅん、確かに鳥と爬虫類は種としては近いところにいるから、肉の味が似ているとは知識としては知っています。
蛇をきちんと血抜きして調理すれば、多少歯ごたえのある鰻のような味になるとも、聞いたことは・・・ありますが。
・・・それでもやっぱり、トカゲは食べたくは、ないです。。。」
がっくりと肩を落とす妻に、そうかと一言だけで遺憾の気持ちを伝えて、
アッシュはマスクを取り外した。
砂埃が強いらしいが、それでもこの熱くて乾いた空気を、胸いっぱいに吸い込んでおきたかった。
数時間程度では肺などは病まないだろうし、病んだとしてもどうせ近々死に向かう身だ。
世界のあらゆる空気を、匂いを、味を。死の世界へと持って行ってやろう。
船が行くに任せて、身を寄せながら砂漠を眺めていると、いつしか空は暗くなり満天の星を散らし始めた。
砂上艇の乗務員がそろそろ街に着くと伝えに来て、サービスにと薄く光る玉の入った幻想的なカクテルを渡す。
聞くとサボテンの一種である発光植物の実で、そのまま噛んで食することも出来るという。
もう砂漠風も止んで静かになったので、ゴーグルやマスクも外していいと伝えられる。
既にマスクを外していたアッシュには少々驚いたようだったが。
酒の味は少し甘めだが濃厚で、光る実は薄く苦みと酸味を備えていた。
「ふむ?
砂国の乾いたイメージにはそぐわん、洒落たサービスだ」
アッシュは皮肉りながら口をつけ、そのままかりんの肩に腕を回すと子供ごと抱き締め、
夜景に中に浮かぶ街の・・・幻想的な灯りを愉しむ。
「・・・帰る刻か」
名残は惜しいが、まぁ大体やりたいことはやったし、それなりに愉しめた。
あとは風呂で砂埃と汗さえ落とせば、もうこの街に思い残すことは無いだろう。
◆
帰宅すると、仕事を終えたらしいカルラが来訪していて、ぐったりと机に突っ伏していた。
もう夜も更けている。8歳ほどの子供からすれば、眠ってもおかしくない時間である。
カルタも共に来ていて明らかにしゅんとした顔で、
「アッシュもう帰るノカ・・・。明日の狩りハ行かないノカ?
明日はカリンも誘おウト思っテたのニナ・・・」と、長槍を弄びながら俯いている。
「はは、兄と遊びたかったか?
残念だな。かりんは俺と帰るのだ」
意地悪くカルタの巻き毛頭をこづくと、「もーーーっ!!」と少女もぽかぽかとアッシュを叩く。
いつの間にこんなに仲良くなったのだろうと、伽藺は『狩り』というスポーツが持つ力に、
しばし感嘆した。
さて、いつまでも幼い妹を、待たせるわけにはいかない。
二人は手早く風呂を借り、赤子たちも老婆と孫娘に身支度を任せると、少女たちに誘われるまま庭に出た。
「来た時と同じように、魔法陣を描いて、戻るのですか?」
カルラが消耗した様子でこくりと頷く。
というより半分眠り掛けているのかもしれない。
「大丈夫なのか?」とアッシュは指差したが、「サぁ?」とカルタは能天気に笑うだけだった。
と、庭木の陰から、人影が姿を現わした。
旅装に身を包んだそれは、布に包んだ人一人ほどもある大きな荷物を抱え、椰子の影に佇んでいたようだ。
「なんだ、誰かいるようだぞ」
「えっ・・・」
その人物をじっと見つめ伽藺は小さく叫んだ。
「ち・・・、父上・・・!? 一体・・・、どうして・・・??」
アッシュがスッと伽藺の前に立ち、庇うように義父を見据えた。
翌日、夜明けの少し前からカルタが狩りの誘いに来て、
アッシュを街の外周にある砂漠地帯に連れて行く。
砂トカゲというものは。
地上を動く分には鈍重だが一度砂に埋まってしまえば、人の目では捕らえられないほどに機敏に動く。
なので、トカゲの埋まっている畝を見つけてはカタパルト式の銛を撃ち込み、地上におびき寄せて狩るという手筈だった。
畝の盛り上がりが、なだらかなところはしっぽだから、撃つと余計に地中に潜ってしまう。
頭を狙って進路を断たれたと思い込ませ、飛び出して来たところを首元を狙って、長槍を持ったカルタが襲い掛かり、
手足の付け根の関節部分を狙ってアッシュが、カタパルトで援護するという手筈だった。
すぐに要領を掴む、アッシュの器用さと戦闘能力には、カルタも上機嫌になり。
1.5mほどの比較的小さなトカゲが標的の時には、長槍係を譲ろうかとまで言い出した程である。
最終的には『市場に卸してもまだおつりが来る』ほど捕れたらしい。
また小振りなトカゲはまだ『仔』らしく、ハーブ漬けにしなくとも臭みがないとかで、
その場で解体して岩塩だけを振って焼いて食べたりもした。
乗っていった小型砂上挺をいっぱいにして帰った後、カルタは市場に寄るからと館の近くにアッシュを降ろした。
「ソレじゃあ、カルタは市場デ、コレを金に代えてクルな! アッシュにはまた分け前をワタスからナ?」
「ああ」
「・・・楽しカッタか? トカゲ狩りハ」
カルタ自身は楽しんだようだったが、ふとアッシュの反応が気になったのだろう、おずおずと尋ねた。
「うむ。地味なのかと思っていたが、なかなかに愉快な遊びだった。
幼少時にも、獣を狩る遊びはしたものだが、やはり狩りとはいいな」
「ソウカ!」
アッシュも楽しんでいたと知り、カルタの表情が明るくなった。
ナラバ明日もナ、今度はカリンも呼ぼウナ、と。はしゃぎながら砂上挺に飛び乗った。
女としての魅力は全く感じないが、よく懐く弟分として考えるなら、カルタも可愛いものだとアッシュは考えた。
ふと脳裏に浮かぶ、自ら捨て去った、未来予想図。
手入れした猟銃を肩に掛け、森の奥へと家族で向かう。
まずは自分が手本として、野鳥か野兎を仕留めてみせる。
その場で手早く捌いて荒塩でも付けて焼けば、怯えていた子供たちも新鮮な肉の味の虜になるだろう。
そうなればあとは容易いものだ。猟銃を見せ付けて次は誰が撃つかと問い掛ける。
最初は二人とも、まごまごしているだろう。
アルクなどは、見た目通りの性格に育ったとしたら、伽藺の背中に隠れるかもしれない。
リンネも興味を惹かれるだろうが、退屈な振りをしているだろう。
なに、一言二言も挑発してやればいい。俺の子なのだからきっと黙っていることは出来ないだろう。
・・・なんて、な。
そんな感慨に耽ること自体、愚かしいことだと首を振った。
アッシュと妻は死を以ってその絆を永遠とする。子供たちはまだ幼いから、判断力がつくまでは生かしておく。
そう決めたのだから、それ以外の未来も可能性も、ありはしない。
一つ、口元に冷笑を乗せて、アッシュは帰途についた。
狩りの興奮が残っている間に、伽藺にこと細かく伝えてやりたい。
「かりん! 帰ったぞ、何処だ?」
ばたばたと大声で呼び掛けながら、騒がしく屋敷中を歩き回って、妻の姿を探そうとするも。
愛しくてたまらない穏やかな姿はどこにも見当たらなかった。
高揚が焦燥となり、激昂をも呼び寄せ始める。
アッシュの剣幕に気弱なサリアがびくりと肩を竦める。
気分を害した彼が大声でがなり立てるのは、今に始まったことではないので、
リンネとアルクは平然としたものだった。
子供の世話を任されていたらしい彼女が言うには、伽藺はサーシャとユノを連れて神殿へ向かったという。
「馬鹿な!」とアッシュが声を荒げて、サリアはまたびくっと肩をすくめた。
だって、あんなに約束した。
決して先走るなと。
大丈夫です、と。いってらっしゃい、と。
昨晩のけだるさを残したまま、それでもあんなに清らかに、微笑んでいたじゃないか。
あの笑顔が嘘な筈はない。嘘など吐く筈はないんだ。
・・・けれど本当は、気付いていた。
昨晩の段階で、伽藺が何か思いつめていたこと、しきりに考え込んでいたこと。
アッシュの腕の中にいてもその瞳はどこか虚ろで。
だから、何度もしきりに言い聞かせた。決して独断専行はするなと・・・。
「かりん・・・!!」
自分の目を盗んで母に会いに行き、一体何をするつもりなのだろうか?
アッシュの中の激昂や焦燥は、極まって一種の冷静さを生み始めた。
伽藺が何かしてしまうならそれはそれで仕方がない。
問題は、妻がきちんと退路までを考えているか、そうではないかだ。
アッシュは激情的な人間だから、妻子にも気持ちは抑えず晒け出せと、常々より教えている。
押さえ込まれて圧縮された欲望ほど、後々に厄介になってくるものはない。
しかし爆発も発散も、きちんと退路を確認してからでなければ、意味がない。
アッシュのように、腕づくで退路を切り開ける自信が、あるならいい。
しかし伽藺は違うだろう。
あぁ見えても妻は計算高い。二進も三進もいかなくなるまでにはきちんと転進するだろうが、
それでもいざ手を下さねばならぬ状況に陥るまでは、虫一匹も殺せないような部分がある。
だから。
アッシュは自負していたのだ。
伽藺が何か究極的な手段に出てしまったときは、その身を抱えて逃げるのは自分の役目だと。
後を追ってすぐさま神殿に乗り込もうとも思ったが。
それよりも先に寄るのは下町歓楽街かと考える。
こんな土地でも、マフィアか盗賊ギルドくらいは、あるだろう。
金目のものは、この部屋をぐるりと見回しただけでも山ほどあるのだから、
足掛かりに困ることは無さそうなものだし。
あとはその者たちが『本当に』信用が置けるかについての目利きだが、
これについては本当に自分の勘を信じるしかない。
ギャングどもがアテにならなくとも、金さえ払えば忠実に動くような奴らは、いくらでもいる。
一枚岩の強固な宗教都市ならまずかったが、聞いた話によると実質ここの市長的存在であるジータは、
多少の差別や弾圧も政治のうちに盛り込んでいるという。
さすれば弱い立場に置かれた者が徒党を組み、差別をかいくぐるための組織を作っていることは、
どこの土地においても明白な理である。
どちらにしてもこんな、上級市民街で探せるものではない。少々寄り道をする必要がありそうだ。
方針を決め、行動に移そうと考えた折。
館の扉が開き、ばたばたと騒がしい足音と子供の泣き声が、玄関ホールに響き渡った。
◆
「やっぱ・・・、早計だった、・・・かなぁ?」
高い部分にある窓を見上げて伽藺は小さく呟いた。
監守は先ほどまで牢のすぐ横で見張っていたが、ただぼんやりと座り込むだけの伽藺を見飽きたのか、
今は見えない部分に引っ込んだようだ。
「ふふ。旦那様に怒られちゃいますね、これ」
きょろきょろと周囲を見渡す。他にも放り込まれている者はいるようで、そこかしこから気配を感じる。
「となると正面から堂々と出て行くのは、いくらなんでも危険に過ぎるかぁ」
当然ながら脱獄するなら、人目はなるべく無い方がいい。
「・・・あの窓かなぁ。ちょっと高いし格子も狭いから、『人の形』じゃ駄目ってことか」
片手をしゅるしゅると柳枝に変える。
妖怪、特に変化と幻術を得意とする樹妖の伽藺には、人間用の牢など押入れの障子戸にも等しい。
丸腰で来たものだから、特に武装解除などもされていないし、このまま出てしまっても問題はない筈だ。
「うーん・・・。とりあえず監守さんは、あとで怒られちゃったりしたら、ごめんなさい」
言うと柳枝を細長く伸ばして、窓に突き立った柵にくるりと巻き付けた。
◆
「か・・・伽藺坊ちゃまが・・・っ!」
「うわああぁん、うわあああぁん!」
「ゆ、夢見様へ乱暴を働いたとして、衛士団に捕らえられてしまいましたっ!!」
「何だと!?」
その言葉はアッシュにとって、信じられないものだった。
まさか『あの』伽藺が。
甘く優しいだけの妻ではないが、それにしてもいきなり暴力を奮うようなことを、
あの平和主義者がするとは思えない。
「馬鹿を言うな、何かの間違いではないのか!?
一体、何があった、何のつもりだ! かりんは何処だ!?」
老婆の襟元を掴むと、アッシュは矢継ぎ早に問い質した。
「え・・・いえ! 私も何が何だか・・・。
私は待合室で待っておけと言われて、ジュノーお坊ちゃまだけを連れて行かれたのです」
老婆も混乱しているようで、詳しい話を聞けるような状況には、思えなかった。
そこに、泣きじゃくった顔のままのユノが割って入り、アッシュにしがみ付いた。
「サーシャおばあちゃんいじめないで!
おばあちゃん悪くないよ、ゆのが悪い子だから、ママが怒っちゃったの!!」
「いえ、悪いのは軽率であったサーシャでございますよ、ユノ様はいい子でした」
どうやら唯一の目撃者はこの幼児であるらしい。
的を得た受け答えも出来ない子供から話を聞き出すなど、アッシュの最も苦手とするところだが、
伽藺の身柄が掛かっているのだから仕方がない。
これがそこいらを走っているような糞餓鬼なら、殴り飛ばしてでもきりきりと吐かせるのだが。
途切れ途切れかつ断片的な証言から話をまとめると、待合室にサーシャを待たせることにした伽藺は、
ユノを連れて夢見師の居室に入った。ここまでの手順はどうやら昨日の通りだったらしい。
しばらくは伽藺もカテリーンも和やかに話していたが抱いている子は誰かという話になり、
「誰だと思いますか」と伽藺は返した
「かりん・・・? いいえ違うわね、かりんはここにいますもの。じゃあきりん・・・??」
と悩み込む夢見に伽藺は、「わかりませんか? 末の弟のジュノーです」と、答えた。
ものごころ付いてから今まで母に会った記憶はなく、
「いい子にしていれば、母に褒めて貰える、抱きしめて貰える」と聞いて育っていたジュノーは、
どきどきしながら母の反応を待った。
しかし返って来た言葉は「知らないわ」というものだった。
ショックを受けたジュノーは泣き喚いた。
生まれてからずっと、会ったことは無いが話に聞いていた母に、拒絶されたのである。
たった5歳の子供に冷静でいろという方が無理な話であろう。
しかしそのけたたましい泣き声を聞いて、カテリーンも過去のトラウマを思い出したのか、
混乱したかのように泣き叫び始めた。
「泣かないでよ! 好きで置いて行くのじゃないわ!!」とユノに掴み掛かり、
そのまま胸を抑えて倒れ、騒ぎを聞き付けた衛士たちに、伽藺は連行されたのだという。
来賓扱いだったジュノーはサーシャに返され、二人はとりあえずそのまま戻って来たらしい。
「何だ・・・。まったくかりんは暴行など、犯しておらんではないか」
となると妻は投獄されているということになる。
早々に助け出す必要がありそうなものだが、神殿の牢ということは妻の両親の膝元になる。
多少の尋問はあるかも知れないが、拷問というレベルのことまでは、されはしないだろう。
となれば、根回しの方を先にしたほうが、いいのかも知れない。
奪還なら夜闇に乗じた方が良いだろうか・・・。
そこまで考えて、ふと先ほどの証言の一つに、疑問を持った。
「先程『悪いのは軽率であったサーシャ』と言ったな。
軽率だと言えることを、貴様は何かしたことがあるのか?
伽藺の言うがままについて行ったことか?
そもそも何故、今まで親と隔離させていた訳有りの幼児まで連れて同行することを、承諾したのだ?
そいつの実質的な親権者はあの小生意気な長女で、隔離についてもあの女が判断したことだろう。
だとすれば貴様の独断で面会させることは、乳母としては越権になるとは思わなかったのか??」
「そ、それは・・・、そう・・・ですけれど・・・」
老婆が怯えて口を噤むのを見て、アッシュはしまったと思った。
自分はいつもこうなのだ。
別にこの老婆を糾弾したかった訳じゃない。
ただ単純に、越権を犯してまで伽藺の頼みを受け入れた、その詳細が聞きたかったのだ。
それを知ることによって、伽藺が嘘をついてまで独行した、理由が読み取れるような気がしたから。
「責めているのではない」
今はそう呟くことが精一杯だった。
伽藺に対してなら最近では、特に意識しなくとも柔らかい言葉がいくらでも出るのだが、
他人には未だ冷たい言葉しか吐き出すことが出来ない。
しかしそれでもサーシャの緊張はほぐれたのだろう。
ユノのたどたどしい言葉を整理しているうちに、混乱が落ち着いて来たのかも知れない。
「伽藺坊ちゃまが昨晩ジーナ様から、どこまで聞いたのかはわかりません。
けれど私に『少しでも後悔されているのなら、今をおいて取り返す機会はない』と言われ・・・。
確かに私はかつての軽率で、ジータ様を・・・ひいてはユノ様を、歪めてしまいました」
サーシャから伝えられた話はおおまかには、昨晩に伽藺から聞いた話と同じような内容だったが、
ジータを引き取った前後に重点が置かれていた。主観がどこにあるかの問題だろう。
「ジータ様が夢見様からの虐待を受け、私が引き取ってからしばらくの間は・・・。
すっかり萎縮したジータ様に対して、私も腫れ物に触れるような接し方しか、出来ませんでした。
しかしこのままではいけないと。
このままでは、ジータ様とカテリーン様の間に、大きな深い溝が出来てしまうと。
カテリーン様は悪くないのだと、悪いのはあの方を狂わせてしまった、異国なのだと・・・」
そこまで言うと項垂れて、サーシャはユノを抱き締めた。
「それがジータ様を、あれだけ変えてしまうことになるとは、私は思っていなかったのです。
軽率でした・・・。カテリーン様を憎んで欲しくないばかりに、私はあの方の血の半分・・・。
お父様を、恨ませるような言葉を、吐いてしまった・・・」
ジータはその日から、丸まって怯えたように暮らすことは、無くなったが。
自らの父を含む全ての異国人を憎むようになり。
また、両親自体にも特別な幻想を抱かなくなったのか、『宗教という強い力を生み出す存在』として、
家や都市を大きくするための材料として扱うようになった。
「今のジータ様にとっては、街の運営も教団の管理も、全てはゲームに過ぎないのです。
・・・所詮、遊戯盤上の駒だと思い込むことで、孤独感に潰れそうな心から切り離したのでしょうが。
ユノ様の教育も・・・、人生も・・・。あの方にとっては多分、盤上の出来事の一つなのです・・・」
ぎゅっと強く、ユノを抱き締める。「こまー?」と、話が理解出来ていないユノは訊き返した。
「なぜユノ様を伴うのかと尋ねた時、伽藺坊ちゃまは『その子がいなければ母は欺瞞に気付かない』と言い、
また『親に愛されていることを知らずに育つと、無条件な愛を信じることが出来なくなる』とも、
言っていました。
あれは・・・坊ちゃま御自身のことだったのでしょうか・・・」
あぁそうか。アッシュは胸の奥から、何かのつかえが落ちた気がした。
◆
伽藺は常々、愛情の理由を聞きたがった。
理由などは無いと言っても伽藺は納得せず、やれ白い肌が好きだとか長い髪が好きだとか、
どこまでも服従するその姿勢が好きだなどと、一晩に渡って説明させられた夜もあった気がする。
擦れ違いが起きる時も、大体は伽藺が自分に向けられた愛や想いに気付かず、
自分は嫌われている・・・もう飽きられたんだと、落ち込んだ時に起こっていた。
アッシュからすれば愛することに理由などは無いのだ。
それは魂の咆哮であり、本能が指示する行動なのだから。
確かに、最初に惹かれたのは儚げな容姿であったし、都合がいいから側に置こうと決めたのもある。
しかしそれは単なるきっかけにしか過ぎず、それが恋から愛となった今においては、
表面的過ぎて無意味な事象でしか無いのだ。
多分、今の自分なら妻の美しさが失われても、愛し続けることが出来るだろう。
家事をすることも、自らへの奉仕が出来なくなったとしても、変わらずに愛することが出来る。
それは魂がそう望んでいるから。
・・・しかし妻はそれを、理解出来ないという。
理由のない愛や理由のない信頼、そんなものを信じて甘えるような、恐ろしい真似はできないと。
やがて、恋人から婚約者となり、夫婦となって。悪戯に不安がることは少なくなったが。
それでもやはり時折は怯えて、アッシュの想いを拒絶しようと、することもあった。
捨てられるくらいならば、自分から壊して逃げた方がまし。
妻の反抗や憎まれ口の原因が、大体においてそこにあると認識できてからは、
アッシュも随分と寛大になったかと思う。余裕が出来たのかも知れない。
けれど。
そんな理由で妻からは、揺ぎ無き意思力を持つと思われているであろうアッシュにだって、
伽藺の不安がわからない訳ではないのだ。
寧ろこの臆病な伽藺でさえ信じているような愛も、アッシュは信じられていないのかも知れない。
アッシュはそもそも他者からの愛が、自分に向けられる可能性があるなど、考えたことも無かった。
自分は常に残虐で非道で。狙われた者からすれば、悪魔以外の何でもなく。
だから自分から伽藺に対する愛は、この上なく信じられるものの一つではあったが、
伽藺から自分に返される愛など、ある筈はないと長らく信じ込んでいた。
そう。この世の悪徳を体現したかのような、こんな男に向けられる愛などは無い。
期待しなかったから、絶望もしなかった。伽藺と愛し合うまでは。
・・・自分がそうなったのも、ひょっとするとその言葉の通り、親からの愛情のようなものを、
感じたことが無かったからなのかも知れない。
◆
「そりゃあ私も反省するところがありましたし、協力出来ることならしようとは思っていましたが、
まさかこんなことになるとは・・・」
困り果てて呟く老婆に、抱き竦められたままのユノが、問い掛ける。
「ユノ・・・ママの子じゃないの?」
カテリーンの言葉が胸に刺さったままになっているのだろうか。
「いいえこんなに、カティ様にそっくりではありませんか。示蓮様にもそのうち似て来ますよ」と、
サーシャはその小さな頭を撫でた。
「ふん、貴様らの自己嫌悪などは、どうでもいい。
要は狂人よりぽんぽんと産み落とされた赤児が、母の愛憎を巡り歪んだということだ。
・・・下らん。俺はかりんを連れ戻しに行く」
大体の事情は飲み込めた。あとは退路を確保しつつ、妻を奪還すれば問題は無い。
資本金を漁ろうと、館の奥に引っ込もうとした時、静かな音を立てて扉がそっと開いた。
「あのぉ~・・・。えへへ、ただいま、です・・・」
扉の向こうでは頭から埃を被った伽藺が、申し訳なさそうにアッシュを見つめていた。
エディンまで転送して貰ってからは、またしばらく平和な日々が続いた。
最初の方こそ、錯乱することが多かったカテリーンだが、住み慣れたエディンの暮らしに少しずつ癒され、
数年も経つ頃には安定して見える日の方が多くなった。
そして驚いたのは、予知夢の頻度と精度がどんどん、上がっていったことだった。
時折、「今日は伽藺にこんなことがあったの」「赤ちゃんは希鈴って名付けられたみたい」などと、
報告のようなことを言って来る様子に示蓮は、子供を案ずる心がそんな夢を見せるのだと思ったのだが。
明日の天気から始まって、来客の予定やオアシスの感知、疫病の予知など・・・。
いつしか彼女の周りには悩める者が集まるようになり。
カテリーンにとっても、自分が誰かの役に立っていると自覚することが、
失われた自信の回復に繋がっていった。
最大の転機は、この土地にはあるはずが無いと諦められていた、豊かな水脈を探し当てた時だった。
当初は半信半疑で土を掘っていた者たちも、染み出す水を目の当たりにしては、張り切らない訳にはいかず。
やがて、こんこんと湧き出す水脈に突き当たったところで、噴き出した水は豊かな川となった。
大集落が組み上げられるのもそう時間はかからず、カテリーンは『夢見様』として崇められるようになった。
示蓮も最初は、カテリーンを守れなかった不甲斐ない男として、彼女の縁者から白い眼で見られた。
しかし、献身的に彼女に尽くし保護している様子から、少しずつではあるが許されていった。
示蓮としてはもっと厳しくされても良いくらいであった。
暮蒔の里でカテリーンが味わった孤独や絶望に比べれば・・・。
少し元気になり。
自信が戻ったようにも見えるカテリーンは、しきりに一つの欲求を示蓮に囁くようになった。
「子供が欲しい」と。
もう会えないかもしれない息子たちを、忘れようとしているのだろうか。
・・・いや、それは無い。この妻に限って。
かつて幸福だった親子3人の生活を、純粋に取り戻そうとしているのだと思った。
母性の強い女性だ。生活と心身が安定したら当然、子供を育てたくもなるのだろう。
斬られた足の腱はそのままだし、自分では歩くことさえ出来ない。
しかしそれでも周囲のサポートさえ整えれば、出産や子育てだって行うことが出来るだろう。
少し考えて示蓮は、夢見師であるカテリーンを中心とした、小さな教団を組織することにした。
宗教というよりは親衛隊に近く、体の不自由なカテリーンを補助することで彼女の集中力と霊感を高め、
より精緻な啓示を受けるということを目的とする団体であった。
教義自体はかつてカテリーンの先祖たちが仕え、未だにエディン全体に浸透しているアース教を基盤に、
コリーア教の良いところを取る形とした。
やがてカテリーンは妊娠。
今度こそ幸せな環境で、平和に穏やかに・・・親子で生活が出来ると、思った。
・・・思っていた。
身篭ってからというもの、安定したように思えてきたカテリーンの様子に、また翳りが出始めたのだ。
まず夢見の力はますます精度を増していった。
しかしそれと同時に、過去のトラウマを思い出すことも、多くなったのだ。
一度思い出せばしばらくは狂乱状態が続く。
置いてきた子供たちの夢もよく見るようになり、泣きながら目覚めることも多くなった。
伽藺に会いたい、希鈴に会いたいと、毎日のように呟くようになり。
そして、出産。
幸せに満ちていたはずのそれは、幼子を一目見たカテリーンの悲鳴によって、引き裂かれた。
「嫌あああぁぁ・・・! どうして・・・示蓮に似ていないわっ!?
やっぱりこの子は、貴方の子じゃないんだわ。産んではいけない子だったのよ・・・!!」
「お、落ち着けカティ。もうここは暮蒔じゃないし、あれからもう、5年以上も経ってるんだ」
「私っ・・・、私、貴方を裏切・・・、・・・裏切って・・・!!」
「大丈夫だから! この子は間違いなく私の子で、そのうちきっと似て来るから!!
ほら、今はカティにそっくりだから、まだわからないだけなんだ」
「・・・・・・、・・・ほんと・・・?」
しばらくの間、発作的に狂乱したら、すぐに落ち着きを取り戻す。
そうしてその後はすぐに、元の母性的な彼女に戻るのだ。
狂乱したことは全くもって覚えていないかのように。
カテリーンによく似た、亜麻色の髪に栗色の瞳。愛らしい女の子。
混乱していない時のカテリーンは、待ち望んだ赤ん坊をそれこそ可愛がった。
愛する夫と大切な子供。
宝物を全て、手元において暮らすことが出来るなど、何年振りだろうか。
けれど不意に思い出す。伽藺、希鈴。そして・・・あの恐ろしい里での生活。
機嫌良く鼻歌でも歌っていたかと思えば、病的なほどに怯えて娘を抱き締め。
そして時折狂ったように、あなたは生まれてはいけない子だったのだと、泣き喚きながら糾弾する。
娘・・・ジリエッタ、ジータはそのうち何を言われても、何をされても。
表情も変えなければ言葉も発さない、生きたまま死んでいるような子供に、育っていった。
そしてある日、家事を手伝いに来たサーシャが目にした、その場面は。
「あなたは罪の子」と呟きながら、虚ろな表情で娘の首を絞める、カテリーンと。
何の抵抗もせずにぐったりとしている、まだ二歳にもならないジータの姿であった・・・。
サーシャは、慌ててジータをひったくると病院に運び込み、救命を行った後にそのまま、
自分の家で育てることにした。
最初の方こそ無感情で無表情な様子ばかりを見せていたジータであったが、
じきに日々怯えて泣き暮らすようになり、それから少しずつ笑顔を見せるようになった。
言葉も少しずつ話すようになり、普通の子と変わらない・・・いや、平均よりは幾分か利発な子に、
成長していった。
しかしカテリーンは、またも子供を奪われたとばかりに、激しく嘆き悲しんだ。
狂乱している間の記憶を保持しないカテリーンは、引き離された理由がわからないままに落ち込み、
新たな子が欲しいと示蓮に詰め寄った。
そうして次にカルタが生まれたが、同じ悲劇を繰り返してはいけないと、
サーシャがその子を育てるために連れ去ってしまう。
それも、正しいことなのだと理解出来るから、示蓮には止めることが出来ない。
しかしやはり、また引き離される理由のわからないカテリーンが、新たな子を望み。
明るい少女だった妻を、狂わせてしまった負い目もあって、逆らえない示蓮は・・・。
そうしてカルラと、それからジュノーが生まれた。
元々あまり体の強く無かったカテリーンは、ジュノーを生むと同時に決定的に体を壊し、
本格的に伏せる生活に入ることになった。
それ自体は辛いことなのだが、もうカテリーンに新たな子を望まれることが無いと思うと、
どこかほっとしてしまう示蓮がいた。
それが後ろめたさにも繋がり、罪悪感から逃げるために示蓮はますます、
忠実に誠実に《夢見師》カテリーンに仕えた。
そうすることで彼女以外の『家族』、・・・つまり子供たちに向き合わなくて済むんだことも、
その時の示蓮にとっては一つの救いであった。
もう、彼は人生における選択ミスを、重ね過ぎていて。
どうしていいのか、どう生きていいのか。妻や子供にどう接していいのか、わからなくなっていたのだ。
◆
「ですから私たちは、ほとんど・・・父母と過ごした時間が、ありません」
気弱げに困り笑いの表情を浮かべるジーナ。
「私たち姉妹、そしてユノにとっては、サーシャこそが母親で・・・。
実の母は幼い頃に引き離された『夢見さま』なのです。
そして父は・・・、父は私たちにどう接していいのか、きっとわからなかったのだと思います。
母の身辺を守護する衛士として、徹底した振る舞いをすることで、私たち・・・という。
愛すべき対象でありながらも、自らの罪と失敗の証である、その存在を・・・。
・・・直視しないように、生きることにしたのだと、思います」
親に疎まれていた・・・という訳ではない。
確かに自分たちは、愛し合っていた両親から生まれたし、望まれて生まれた子でもある。
なのに・・・、・・・なのに・・・。
どうして素直に家族と呼び合うことが出来ないんだろう?
「それでも私たちは、それが当然のことだと思って、生きて来た。
けれどジータ姉様は・・・、多分・・・覚えているんです・・・。
母親に抱かれるぬくもりや愛される喜び、そして・・・それとは真逆の突き放される辛さ。
罪の子・・・と糾弾される、その痛みも・・・」
やがて、ジータは歳相応以上の知性と閃きを、才覚として現わすようになって来た。
10歳になるかならぬかのうちに教団の形式に口を出し始め、
いろんな集落から人が集まって来ただけであった街にも統治が必要だとして、
ちょっとした宗教都市へと変えてしまった。
信仰の対象として大きな神殿を作り。
夢見師を神格化することで。
『大いなる存在』に依存したがる集団心理を煽り。
彼女が動き始めてからの数年で、ここはすっかり大きな都市となってしまった。
信者たちが落とす金、それから整備された土地に住まう者が収める税金は、
さらに街の整備と上下水道設備に充てられ。
この土地で生きるうえでの命綱となる『水』は、決められた法の下で管理されることになった。
良く尽くす市民には水は、惜しみなく並々と与えられる。
逆に無法の者や後ろ盾のない者、働かない者はたった一杯の水を得るために、
それなりの苦労や恥辱を払わないといけないようになった。
圧制だとされないよう、弱い者や理由のある者には、そこそこの福祉を与えるようにした。
制限は自分の名において。恵みは夢見師の名において。執行は衛士の名において。
そうしてさらに信仰を、揺ぎ無きものにするために。
「人の弱さにうまく切り込んで、秩序と規律を組み込んだ・・・。
政治家としての彼女は、とても有能なのだと思います。
彼女のおかげでこの街は安全になり、私たちは名士の一族として何不自由のない暮らしを、
出来るようになりました。
・・・ただ、それらを考え付くことが出来るのも、実行することが出来るのも、
心の奥底にある不信感や劣等感・・・そういうものが働いてのことだと思うのです。
そう考えると姉は、とても淋しい人なんだなって、・・・思います・・・」
ジーナは俯いて唇を噛む。
「私くらいは・・・あの人の側にいて、助けてあげたい・・・。
けれどあの人の行う行動は時折、側で見ているには・・・、私には・・・辛過ぎて・・・。
あの方は市民や土着の者にはとても優しい。勿論、都市運営にプラスになればですけれどね。
ですが・・・異国の民にはとても厳しく、時として迫害さえも扇動することがあります。
異国の民を・・・。『得体の知れぬ者』を、心から憎んでいますから・・・」
そのことについてお話するのでしたねと、気を取り直すように薄く微笑み。
「サーシャはとても素敵な育ての母親です。明るく優しく時に厳しくてユーモアがある。
けれど彼女だって心を持った人間です。
表立って口には出さずとも、母を悲しませて壊した異人に対しては、敵愾心があったのでしょう。
そしてまた、心を閉ざしてしまっていた幼い姉を、癒す必要もあったのだと思います」
元・乳母として、娘同然に思っているカテリーンを、憎まれたくないという思いもあったのだろう。
幼いジータにあれは本当のカテリーンが行った行動ではないと。
彼女は本来とても明るく優しい女性で、それを狂わせてしまったのは異国に住む、
人の姿をした悪魔たちなのだと。そう説明して育てた。
根は素直な少女であったのだろうジータは彼女の言葉を信じて育ち。
そして優しかった母を狂わせたという異国の民と、その仲間である父を・・・強く憎むようになった。
「そんなことが・・・」
伽藺は痛ましげな表情で、ティーテーブルに肘をつき、組んだ手に額を付けた。
「今はサーシャも後悔しているようです。
夢見様への誤解を解きたかったとはいえど、また幼い子供に聞かせる話では無かったと」
しかし今となっては仕方のない話。
過ぎてしまった時間は戻らず、後悔が先に立つこともない。
誰が悪かったのか、今となってはもう、わからない。
沢山の失敗と沢山の後悔が絡んで、その結果としての今がここにあった。
◆
「・・・あなたも、サーシャ様から、その話・・・を?」
えへへ、と困ったように笑って、ジータが告げる。
「私は・・・、私も母様ほどではありませんけれど、一応は夢見師ですから・・・」
「・・・、それ・・・、は・・・」
「特に母とは波長が合うようで、あの方の考えていることや記憶は、よくよく私の中に流れて来ます。
時折・・・ですが、父からも・・・。
あっ、でも気にしないで下さいね!
こうして起きている時に、人の心を覗いてしまうなんてことは、ありませんから!!」
ぶんぶんと慌てて手を振る。
そうだ、相手がこんな小さな子供だとはいえ、いや・・・子供だからこそ。
自分の記憶や思考が、覗かれるかも知れなければ、人は警戒するのだと思う。
そんな反応を彼女は今まで、何度も向けられて来たのだろう。
内気だが素直で愛らしい、人好きのする少女である。
だから、初見の者は大抵好意を持って可愛がるのだろうが、彼女の能力を知ったら・・・。
姉とは違う形の絶望を彼女も、何度も味わって来ているのだろう。
「いえ、私は大丈夫ですよ・・・」
安心させるように笑ってみせるが、内心は伽藺も気味の悪さを感じていた。
伽藺もまた過去にいろいろあった身の上である。
胸を張れるような経歴ではないし、人には言えないこともいくつかは、して来ている。
もし心や記憶が誰かに覗かれるとしたら、とても居心地の悪い思いをすることになる。
けれど彼女は、そういう警戒の眼を向けられることにも慣れていて、
それは仕方のないことだともう、諦めているのだろう。
そしてまた彼女はその能力により、両親のトラウマを引き継いでしまっている。
母がその恐怖から狂った一夜・・・。
父が誰にも語ることのない秘密と、心の奥底に仕舞いこんだ罪・・・。
たった10歳の少女の身の上でありながら、両親の心さえも壊してしまったそんな事件を、
夢とはいえ経験してしまった彼女は。
それでも目の前でこんなに。
今にも手折られそうな花のように、儚げに夜風に吹かれ微笑んでいる。
自分が10歳くらいの頃は、ここまで強くあれただろうか。
「強いのですね」
「えっ・・・」
「いえ。まだそんなに小さいのに、あなたは強いな・・・って思って」
「・・・・・・?」
言葉の意味を、少し考えてから、ジーナが口を開く。
「小さいから・・・。子供だから、なのだと思います」
「え・・・?」
「まだ、何が辛くて何が辛くないのか。わからないような子供だから。
だから平気でいっらえるのだと思います。
このまま私が大人になった時、これがどう響いて、関わって来るのか。
それはわかりません」
俯き加減に呟く少女の顔に薄く浮かんだ笑み。
自嘲の色が浮かんだと感じたのは、伽藺の考え過ぎだったのだろうか?
「何も怖いと思わないかわりに、大切なものや愛する気持ちも、持てなくなる・・・。
そんな大人になる可能性も、あるかも知れないと・・・思っています」
高過ぎる知性と、早過ぎる諦念。
その代償が何であるかを、彼女は姉の姿を見て、既に知っていた。
だから。
いつか自身もそうなるかも知れないのだと、日々覚悟を決めて生きているのだろう。
その覚悟がさらに、彼女自身から夢や希望を奪う結果になるかも知れないと、
そこまで気付いているのかいないのかはわからないが。
「だいじょうぶ、・・・ですよ」
強くあろうと。
こんな小さな体で、それでも吹く風に飛ばされず、生きて行こうとしている妹。
「信じることです。あなたはそんなに強くて、賢くて、そして・・・優しい。
それだけのものを与えられたのだし、もっと自信を持ってもいい筈です。
あなた自身を信じてあげなければ、起こる奇跡だって起こりませんよ?」
「奇跡・・・?」
自分のものよりも、さらに柔らかな緑の髪を、伽藺はふわりと撫でる。
「あなたならきっと、奇跡さえも起こせるように、なると思います。
苦しみや悲しみではなく、思い遣りや愛をその原動力にして、
母上とは全く違う新しい力を持つ、『夢見師』になれる筈です。・・・・・・ね?」
ずっと離れて暮らしていた兄の言葉は、妹の心にどう響いたのだろうか。
頭に置かれた手の温もりに薄く頬を染めると、小さく・・・しかししっかりと頷き。
「はい」と。消え入りそうな声で返した。
すっかり陽も落ち、辺りは真っ暗になった。
暑い地方とはいえこの時間になるとさすがに冷える。
そろそろ戻ろうかと伽藺が促し、手を掛けたジーナの肩が冷えているのに気付くと、
自身が羽織っていた薄手のショールを着せ掛けた。
◆
アッシュが。
ゆっくりと眠りの世界に招かれ始めた頃、扉を静かに開けて伽藺も戻って来た。
普段ならすぐ隣に潜り込んで来そうなものだが、今日ばかりは深くため息をついて、
ベッドの隅に腰かけたままでいる。
「そ・・・か。そうだよな、歳が離れ過ぎてた。・・・でもこれで繋がった。
母も被害者だろうけれど、彼女も・・・被害者だったのか」
母を怨むことが許されないなら、父に憎しみを転嫁するしかない。
身近にいる憎むべき相手といえば、母を狂わせた者たちの同族である、彼しかいないから。
けれどそれはあまりにも、哀しい選択でもある。
自分の親を憎むということは、自分の血の半分を憎むことでも、ある。
「母上・・・今は、大丈夫なのかな・・・。
私に話掛けてくれた母上は、正気の母上・・・なんだよね?
やはり私は今さら、頼るべき・・・では、無かったの、かな・・・」
別れ際。
「それでもやっぱり、母・・・夢見様にとって、幸福な時代の象徴は、兄様なのだし。
今でも会いたい・・・会って確認したい、父にちゃんと似たのか知りたい子供、は。
『キリン』という名の・・・二番目の兄様だと思うのです」と。
ジーナに言われた言葉が脳裏を過ぎる。
「僕は・・・どうするべきなのだろう?
何が出来ると・・・、いうの・・・かな・・・」
小さく呟きながら考え込んでいたが、首をふるふると振って思考を飛ばすと、
夫が横になるベッドに入った。
その感触に気付いて目を開けると、アッシュは静かに伽藺を抱き締めた。
「話はどうだった? 疑問は解けたが、不安が的を得た、という顔だ」
薄暗がりの中の妻に笑い掛けると、伽藺もそれに返すようび、曖昧な笑みを浮かべた。
「・・・かりん。
貴様がやはり預けたくはないというなら、それは貴様が決めていい。
そうなれば、俺のろくなのがおらん知り合いのからでも、探してみる」
よほどまともな人脈が無いのか、前々からアッシュは自分の関係者にだけは、
預けたくないと言っていたのだが。
その意見を曲げてもいいと思うほど、伽藺の様子は憔悴していたのかも知れない。
けれど妻は静かに頭を振った。
「彼女自身がかつて、保護者の手によって生命の危機に曝されていた、立場のようですから。
子供を相手に露骨ないやがらせをすることはしないでしょう。
・・・成人したらそれこそ、財産分与上のトラブルを避けるため、
容赦なく放逐されるのでしょうけどね」
「ふん。
幼少時にトラウマを抱え、しかも解消し得てないものこそ、鬱屈を子にぶつけるものだぞ?」
「それについても大丈夫でしょう、ある程度の年齢にまで育てばあの子たちは、
強く生きてくれると思います。それだけのしたたかさはある子供たちだと思いますから。
ですが・・・、それより・・・」
小さく俯く伽藺は何か、言い辛いことを言おうと、しているようだった。
アッシュがゆったりとその背を撫で、緊張を解しながら言葉の先を促す。
「私自身が・・・。今回のお話を壊してしまったら、・・・ごめんなさい」
「・・・ん?」
意味を掴み損ねたアッシュに伽藺が、同じ言葉を伝えることは無かった。
「何のことだか知らんが、貴様の思う道を行け。
俺はいつだって、貴様の隣を歩いている。フォローくらい任せろ」
頼り甲斐のある夫の言葉に、一瞬嬉しそうな顔をした、伽藺は。
しかしすぐに淋しげな表情に戻って、「はい」と小さく返して微笑んだ。
「明日も会いに行こう。貴様の母にな」
「。 ・・・そうですね、明日。・・・明日・・・。
・・・そう、・・・会わなきゃ。このままじゃ、駄目・・・。」
少し、驚いたような風情を見せたのは、何故だったのか。
不審に思ってアッシュは、もう一度しっかりと念を押した。
「共にだぞ? いいか、独断専行は、するなよ??」
その言葉には返さず、伽藺は薄く笑っていた。
そのまま、夫の手指に自らのそれを絡み合わせ、唇同士を深く噛み合わせた。
外気よりも温度が、低いのではないかと思えるくらい、ひんやりとした舌が愛撫を求める。
そんな妻の体がふっと消えてしまいそうな気がして、アッシュは背中を強く掻き抱いた。
「ぁ、・・・っ・・」
力いっぱい抱き締められ、薄い肉の中で背骨が軽く軋む。
伽藺は細い声を絞り、静かに問い掛けた。
「私の身内の面倒など、関わりたくは…ないでしょう?」
「面倒は確かに嫌いだが、貴様に関することには、立ち会わんで何とする。
傍にいてこそ護れることもあるだろう」
アッシュの。・・・最愛の夫・レオンの想いのこもった言葉に、伽藺は少し涙ぐみそうになった。
それを誤魔化すかのように唇を這わせれば、夫の手が夜着をはだけて素肌をなぞり始める。
「かりん。男の体であっても、可愛いぞ・・・?」
「ふふ、貴方は逞しくて、とても素敵ですよ。レオン」
女体である普段よりも硬質な感触を楽しみながら、アッシュは妻の身を覆う夜着を下着ごと全て脱がし。
乱雑にベッドの下に落とすと、一糸纏わぬ裸の体の肩に、胸元に、臍に、そして膝に・・・、
あらゆる場所に接吻けを落とし。
不安を振り払うかのように絡み、飽きるほどに愛し合う二つの姿を。
カーテン越しに煌々と光る、砂漠の月だけが見守っていた。
夜のエディンは、日中の陽射しがうそであるかのように涼しく、乾いた風が髪や頬を撫でていった。
そこに、よく似た姿の兄妹がゆったりと、夜着をひらめかせて歩いてゆく。
庭は緑豊かで、多くの花が咲いているように見受けられたが、その殆どが多肉植物の一種であるようだ。
乾いた地方は乾いた地方で、やはり植物も独自進化を、するのだろう。
「姉は外の世界の・・・特に倭人の方が嫌いなんです」
細い声が言葉を紡ぐ。
どこか思い詰めたような細くて高い声。
自分ではよくわからないけれど常々、女性化した伽藺の声を甲高いと評している夫に聞けば、
またよく似ているというのだろうか?
「それは父さまに対しても同じ・・・。
あまりに幼い頃から父に反発するものだから、今では父自身もあまり私たちに構わないように、なってしまいました。
私だけは夢見師の修業をしている関係で、まだ父や母には可愛がって貰えますけどね。
カルタもあの通り屈託がないからいいんですが、カルラやユノはかわいそう・・・だと、・・・思います」
カルラという名の末の妹は、幼いながらに寡黙で毒舌で、どこか大人っぽい雰囲気を持つ少女だ。
(共通語がまだあまり流暢ではないようなので、伽藺からすればあまり喋る印象がないからかも知れないが)
考えてみればあの冷静さは、幼さに似合わない諦めを重ねた末に、得たものなのかも知れない。
ユノという末弟に至ってはまだ幼過ぎて、分析のしようもないのだけれど。
カルタもそんな悩みには無縁なように思えるが、ひょっとすればあの明るさや少年っぽい活発さ、
アッシュにやたら懐く態度などは、父親の影が薄いことでのの寂しさが、影響しているのかもしれない。
「そう・・・ですか・・・。
親がすぐ近くにいるのによそよそしいというのは、離れて暮らしているよりも淋しいことかも、知れませんね」
「あ・・・すみません。カリン兄様は両親の側にさえ、いなかったというのに」
「いいえ、私にはよくしてくださる方たちが、おりましたから」
里長家の者という立場上、表に見える形での不自由は無かった。
異人の子だと言外の迫害は受けたが、それは特に言う事でもないだろう。
「そう・・・ですか、はい。私たちにも・・・、サーシャがいてくれたから・・・」
あの騒がしい老婆は末弟にはいたく懐かれていたようだ。
「ええ、ああいう方の存在は、頼もしいものですよね。
けれど・・・ジータ様は何故そこまで、倭人を嫌っているの・・・です?」
「その理由も説明したいと思って」と、ジーナは幼い娘に不釣り合いなほどに、しっかりと言葉を紡いだ
夕食の席で萎縮するように座っていた娘と同じ人物だとは到底思えない。
最もその顔色には強く緊張が表れており、たった10歳の少女が話すにはあまりにも重い事情が、
隠されているようであった。
「・・・少し、長いお話になるかも知れません。テラスにお茶を運ばせましょう」
◆
「父さまと母さまの出会いは、もうほとんど30年近く前。
まだ若かった父さまがこの世界・・・エディンに迷い込んだことから端を発するようです」
当時、示蓮はまだ、15歳。
けれどもう既に、郷里では若き里長として、多忙の日々を送っていたという。
「とはいえまだ先代の長さま・・・、つまり私たちのお爺さまはご存命でしたから、
内々のことよりは部隊を率いて、一族の使命の元に戦いに赴くことの方が、多かったようです。
ええと・・・確か父さまのご実家は、人ならぬ者たちと戦うことを、生業としていたのですよね?」
その通り。
『暮蒔』の一族は、半妖であるその身・その血を利用して、人の世に迷い込んだ妖を狩る。
穏やかに会話で解決した後に送還する場合もあるが、大体においては血みどろの戦いを繰り広げることになる。
「そう・・・ですね・・・」
半妖の里とはいえ、その中には妖の特徴の薄い者から、濃い者まで雑多にいる。
どちらかというと幼い頃から体術よりは魔力に優れ、召喚術で妖と接する機会の多かった伽藺からすれば、
同族殺しを定められた一族に思えて仕方が無かった。
「そんな中、何らかの事故でエディン・・・。
当時はまだ巧妙に封じられ隠されていた、この世界に飛ばされてしまったようなのです」
戦いの中にしか、生きることを許されない少年は、そこに生きる少女に恋をした。
その娘は行動も性格もおっとりとして、まったく平和を体現しているかのようであったが、
過酷な自然環境の中で暮らしているためか、示蓮よりもよっぽどしっかりしている部分もあった。
ただの漂流人であったはずの示蓮はいつしか、この少女と離れたくないと思うようになり。
少女もこの異国の少年に対し、興味や愛着を通り越した何かを、覚えるようになった。
やがて少女が15歳の成人を迎え。
彼ら二人は、それが当然の流れであるかのように、小さな小さな結婚式を挙げた。
今のような大きな街ではなく、まだ水場を探してさまようような、小さな集落の主であったこの一族には。
血縁や素性を探るような慣習は無く、ただ健康で働き者であることそれだけを見込まれて、
示蓮は改めて、この少女・カテリーンの配偶者として、集落に迎え入れられた。
もっとも、この時。示蓮はカテリーンを失いたくないあまり、彼女に伝えていない秘密があったのだ。
自分は里長の身分であるので、いつか戻らなければならないこと、と・・・。
親族が決めたことで、自分の意思では無かったとはいえ、もう既に故郷には妻がいること。
その妻とは死別しているが、未だ幼い娘が一人いること。
◆
若い夫婦の間にはほどなくして、玉のような男の赤ん坊が生まれた。
名前はカテリーンの愛称である『カリン』にちなんで『伽藺』。
カテリーンの方は改めて『カティ』と呼ばれるようになった。
両親のどちらとも違う緑の髪にカテリーンは驚いたが、示蓮から樹妖である祖母の血から来たものだと聞いた。
それでも水や緑に乏しい砂漠の土地に、神が恵みの子をもたらしたのだと、若い母親は喜んだ。
特別元気とは言えない赤子だったが、それでも大きな病気をすることもなく、ごくスムーズに育児は進んでいった。
カテリーンの両親は数年前に亡くなっていたが、彼女のかつての乳母・サーシャの助けも得ることが出来た。
そして飛ぶように過ぎる日々が一段落した後。
示蓮はとうとうひた隠しにしていた事実を、カテリーンに打ち明けたのだった。
カテリーンは最初、何故そんなに示蓮が恐縮しているのか、わからなかった。
妻とはいっても、親族が決めた相手だというし、既に死別して久しいという話だ。
残して来た子供というのが、心配だという気持ちはわかるので、その子は引き取ろうと夫に話した。
けれど夫は首を振り、その子は既に里の重要な位置に置かれていて、引き取ることは出来ないという。
それどころか自分もいずれは、里に帰らなければいけない、という。
ならば。
愛しい人が旅立つというなら、それに従うのが妻というものだと、カテリーンは夫に告げた。
遠い、遠い。異郷の地。それでも愛し合っているなら、困難だって乗り越えて行ける筈。
厳しい自然の中で身を寄せて暮らす、ある意味平和で暖かい人々の中で育った、カテリーンには。
その先に待つ苦難や恐怖を、予測する術は・・・無かったのだ。
◆
ムロマチのさらに奥地に位置する半妖たちの里・暮蒔。
灼熱の砂漠とは全く違う、いっそ清涼ともいえる季候のその土地に、まずカテリーンは驚いて。
そして言葉が全く通じないことに強い不安を露わにした。
それでも夫が無事な姿を見せることで、人々が喜んでいるのを見ると嬉しく思ったし、
夫のことをこんなに想う人たちなのだから、きっと自分も受け入れて貰えるに違いない。
と・・・思っていた。
まず、案内されたのは、小さな小屋だった。
すぐ家に入れる訳にはいかないから、ここで待っていて欲しいといわれたので、
素直なカテリーンは頷いて従った。
子供は手渡した。既成事実が説得の材料になるかもしれない、と、夫が説明したので。
・・・でも何故、説得なんかしないと、いけないのだろう?
私と示蓮が夫婦だというのは、もう神様にも誓った決まり事で。
子供がいることだって、今更覆しようもない事実なのに。
次に、示蓮の顔を見ることが出来たのは、深夜に近付いた頃だった。
頬が青く腫れている・・・。
カテリーンは、「どうしたの」とその痣に触れ、簡単に治癒の術を施した。
示蓮はそのままぎゅっと彼女を抱き締めると、「駄目だった・・・」と搾り出すように呟いた。
子供は、その手の中には、居なかった。
落ち着いた示蓮が話すには、カテリーンの存在を親族たちに、認めて貰えなかったという。
前妻との婚姻が解消されていないというのに、新しい妻・・・しかも異国の素性の知れない女など、
認めるわけにはいかないと言われた、というのだ。
前妻といっても亡くなっているのでは、と返すと、姻戚関係やら何やらが複雑で、
親族対親族の話し合いで解消せねば、死後も夫婦という関係は続くのだという。
素性の知れない女というが、自分の一族は両親こそ亡くなっているものの、
エディンではかなり古い神官家に属すると伝えたが、
「駄目なんだ。やつら自分が理解出来るもの意外、全てが『素性の知れないもの』なんだ」
と、示蓮はうなだれるだけだった。
しかし、子供のことだけは好意的に、受け取られたという。
前妻との間にいるのは娘だけだが、こっちは息子だったからかも知れない。
赤子なのでまだ顔立ちなどはわからないが、髪や目の色が示蓮の祖母である樹妖に、
似ていたせいもあるのかも知れない。
「じゃあ子供のことは認めてくれるのね」
「あぁ・・・だけど下手をしたら、伽藺を取られてしまうかも知れない」
「どういうこと?」
「子供を認めて、その母親を認めないということは、つまり・・・。
母親はいないということにして、他の乳母や養育係を付けて、育てる・・・ということだ」
「な、何・・・、それ・・・」
狂っている、と、カテリーンは思った。
健康上にも倫理上にも、何の問題もない母子を引き離して、育てるなんて。
けれど示蓮はそのことについては、何の疑問も抱いてはいないようだった。
この常識の中で育った人なのだと思うと、急に彼との距離が開いたような気になった。
子供を取り戻して、エディンに帰ろうと訴えたが、簡単には返して貰えないと告げられた。
そうして・・・ここから数年。
暮蒔の里での、夫婦にとっては辛い生活が、続くのだった。
示蓮は立場を築き、少しでも自分の意思を認めてもらおうと、里の仕事に全力投球で関わって。
カテリーンは示蓮の妻とは認められないまま、子供とも引き離されて暮らしていた。
時折、仕事の合間に示蓮が帰って来た時の、つかの間の邂逅。
それだけが生きている心地のする時間であった。
暮蒔本家で大切に育てられている伽藺を、ときたま遠目に見ることのできる瞬間があるから、
カテリーンはまだこの里にいることが出来た。
一応、妻とは認められてはいないが、示蓮の『もの』という扱いでは、あったらしい。
なので生活は保障されたし、寄越される侍女たちとの会話で、言葉も少しずつ覚えた。
時折、意地の悪い侍女が来て、嫌がらせをする事もあった。
どうやらそれは、示蓮の前妻の子である娘・磨凛が、させていることであったらしい。
最初は不可解な気持ちで一杯だったが、そのうちにそれも当然なのだろうなと、
思うようになって来た。
嫉妬や嫌がらせという行為があるということもこの生活の中で学んでいった。
穏やかに暮らして来た彼女にとっては、何もかもが信じられないことばかりであった。
◆
事件は、示蓮が仕事で遠征している時に、起こった。
その日は寝苦しい夜で、何度寝返りを打っても、深く眠ることは出来なかった。
この里に来てから、カテリーンはゆっくりと休んだ覚えは無かったが、
また格別に気持ちの悪い夜であった。
何度寝直しても嫌な夢を見て起きてしまうのだ。
嫌な夢を見る時は絶対に何か嫌なことが起こる。
古には神官家とされ、今なお多くの占い師を輩出する家系に生まれたカテリーンには、
予知夢を見る能力があった。
とはいっても鮮明夢ではない。また、見るものが選べるわけでもない。
なので起きた時には夢で与えられていた啓示が、わからなくなっていることもある。
いざその場面になって、ようやっと『あぁこのことだったのか』と、気付く時が多い。
カテリーンの能力は名だたる祖先たちのように、占師として生きて行ける程のものではなかった。
その時、住まわされている小屋の、障子戸が動いた。
侍女が忘れ物でも取りに来たのかと、上体を起こして声を掛けたが。
確かに聞き慣れた侍女の足音はした。
それは小走りに走り去る音であり、それとは別の重い足音が自室に近付いて来ることに、
カテリーンは気付いた。
それからの記憶は、ほぼ無いに等しい。
抵抗はしたが、小柄で非力なカテリーンが、力で勝てるわけがなく。
「ハシタメなんだろう」、「けちなこというな」という言葉が、ただただ耳に残っていた。
・・・・・・。
ハシタメ、って、なんだろう?
私は示蓮の奥さんなのに。こんなこと、許されるはずがないのに。
◆
早朝。
したたかに酔っていたらしく、男が眠ってしまった後、カテリーンは小屋を抜け出した。
頼りたい示蓮はいない。
けれど本家にも幾人かは、カテリーンを哀れんでいるような者が、いた。
意地悪な侍女はいたけれど、良くしてくれた侍女も、勿論いた。
走って、走って、本家の戸を叩いた。
汚れた体に夜着を巻き付けたままの姿で、大声で叫んで泣いて・・・そして倒れた。
男はそのまま、本家からの手の者によって連行され、処罰を受けた。
カテリーンは示蓮の『妻』と扱われていなかった。
しかし、示蓮の『所持品』としては認められていたから、男は『里長の持ち物を傷付けて奪った』、
つまり破損と窃盗の罪で裁かれたらしい。
利き腕を切断されたと聞く。
しかし、その処遇に怒り狂ったのは、その男の妻であった。
どうせどこかの国の娼婦か酌婦なのだろう、うちの人を誘ってたぶらかしたに違いない。
そういえば燃やしたゴミの中に、わけのわからない文字で書かれた文が、あったような気もする。
その女が、うちの周りをうろうろしていたと、近所の者たちが噂をしている。
覚えもない言い掛かりばかりだったが、それでも里で生まれ育った土着の女と、
言葉も満足に通じないような異国の女では、有利・不利が全く違った。
噂は風のような速さで広がり、カテリーンが男を誘ったのだと、誰もが囁くようになり。
ここまで来ては本家も庇い立てが出来ないと、カテリーン自身も処罰を受ける結果となった。
処罰の内容は足の腱の切断。
一人で勝手に出歩いたり、ましてや男を誘惑したり、しないようにという事である。
・・・やがて、遠征から帰って来た示蓮が、見たものは。
不自由になった足に包帯を巻き付け、部屋の隅のぎりぎりにまで寄っては、体を小さく丸め。
「私が悪いの?」「私は違う」と小さな声で呟き続ける、
かつての朗らかさなど欠片も見当たらない、壊れきった妻の哀れな姿であった。
◆
示蓮は後悔した。
古い因習でがんじがらめになったナンセンスな里だと思ってはいたが、
それでも長家の子として大切に育てられていたからか、
どこかで甘く見ていた部分があったのかも知れなかった。
得体の知れない異人とはいえ、まさか自分が愛する女性に対して、
こんな仕打ちをするとは思っていなかったのだ。
「すぐに逃げよう」とカテリーンに近付いたら、怯えた様子で体を丸めて泣きながら謝られた。
「ごめんなさい示蓮」「私は違うの、誘ってない」「もう痛いのは嫌」など・・・。
その様子に今は行動を起こせないだろうと考え、示蓮はカテリーンの心身の回復を待とうと決めた。
また折悪しく、カテリーンが身籠っていることも、発覚した。
事件の起こった時期から計算しても夫婦の子に違いはないようだったが、
すっかり強迫症的になっていたカテリーンは「示蓮に似ていなかったらどうしよう」と、
毎日毎晩泣いて過ごすようになった。
示蓮もすっかり遠征に同行しなくなり、空いている時間は常に、カテリーンの側にいるようにした。
壊れてしまった妻が・・・、滅多なことをしないように・・・。
侍女も信用しきれないということを、彼女から聞いてしまっていたから。
やがて、月満ちて。
カテリーンが何とか無事に子供を産み落とすと、未だ産褥のダメージから回復しない彼女を抱えて、
示蓮は暮蒔の里を後にした。
子供たちも心配ではあったが、何よりもカテリーンをこれ以上、里に置いてはいけないと思った。
実はそのしばらく後。
こっそりと示蓮は戻り、カテリーンを追い詰めた男とその妻を殺し、その家に火を放ったのだった。
これは、里長としての制裁ではない、示蓮個人の復讐。
自らの命が尽きるまで、誰にも知らせない秘密・・・、そう・・・思っていた。
視線に気付き、振り返るまでは。
そこには見慣れた少女。まだ10を越えたばかりの、彼の娘・・・磨凛。
彼女は片頬を上げ皮肉げに笑い、腹心の侍女と共に夜闇に消えてしまった。
そう、その表情に、笑いに。気付いてしまったのだ。
彼女を本当に『壊した』のは、その一連の事件を手引きしていたのが、一体『誰』だったのか・・・。
外見年齢は20歳ほど、実年齢は20代後半。
夫との間に男女の双子あり。
性格はおっとり。
行動は良く言えば優雅、悪く言えばどんくさい。
少し急ぐとすぐ転ぶ。
ネバーランド・ナハリ国の軍務省にも補佐官として所属している。
ユエルティートという名の少女を、小鳥と思い込んでペットとして飼っていたことがあり、
人の姿を現した今でも、娘代わりとして可愛がっている。
義兄にはウィルフェア氏とティーラ氏。氏の家族や同居人諸氏とも懇意で、何かとお世話になっている。
お茶が大好きでお茶菓子も好き。
甘党で大食漢。カロリーコントロールを言い渡されるレベル。