やがて充分に暖まり、さっぱりとして風呂から上がると、
屋敷中に旨そうな肉やスパイス、フルーツの匂いが充満していた。
歩くたびに風を孕んでは逃がす部屋着を靡かせ、使用人たちの案内の元に食堂に向かうと、
そこには南国情緒の溢れる豪華な宴席が設けられていた。
カルタやカルラも並んでおり、また他の姉妹かと思われる者たちも、きちんと並んで座っている。
上座には、カルタより少しだけ年長に見える、伏せ目がちの無口そうな少女。
10歳くらいだろうとおぼしき、大きな瞳が愛らしい少女。
補助具付きの椅子に埋まるように座っている、まだ5~6歳かと思われる素直そうな男の子。
アッシュ達も案内されて席につくと、メインディッシュらしきやたら大きな皿が、
数人がかりで運ばれて来る。
「ふふーん♪」
何故かカルタが得意げな顔をしている。
客人二人のグラスに、果実酒のようなものが注がれ、そしてメインディッシュの蓋が取られる。
カルタは胸を張ってふんぞり返り。
他の姉妹たちはこともなげにその中身を眺め。
そして、伽藺は。
綺麗な南国の花に彩られ、食欲をくすぐる香草の香りを纏った、『それ』。
・・・全長2~3mはあろうかという、巨大なトカゲの姿焼きを見て、顔色を蒼白にさせていた。
アッシュも呆れたように、カルタに問い掛けた。
「なんだ、これは。これが砂トカゲとやらか? あまり美味そうには見えんが・・・」
そう言って、蒼白な顔色で口をぽかんと開けている、妻の様子に小さく笑う。
「くく。かりんなどは固まっているではないか」
「見た目はコウだガ、味はホショウするノダぞ?」
まずは一口食べてみろと、しきりに彼女は皿を勧めた。
他の姉妹たちはごく普段から食べ慣れているように、静かにナイフとフォークでトカゲの肉を切り分けている
カルタはどう説明したものかと、うーんと考え込んでいる
「ソダなー、歯ごたえはチキンに近いゾ、淡泊でヤワラカイ。けど味はラム肉ミタイだナ!
脂にヨク味や香りがシミ込むから、ワタを抜いてハーブや花を詰めて焼くト、トテモイイ匂いがスルゾ!!」
「むろん、ワタはワタで食エルがナ」と、得意げに語るが、
「やめて下さい・・・チキンとラムまで食べられなくなります」と伽藺は顔面を蒼白にしていた。
アッシュは、「そんなに言うなら食ってやらんでもないが」と、まずは欠片を口にし。
シェフの腕がいいのか、意外と華やかな風味に、ほうと軽く舌を慣らした。
彼の好みというには少々淡白な味に過ぎたが、女子供の食卓には上品でいいのではないだろうか。
むしろ自分よりも、伽藺の好みなのではないかと思い勧めてみたが、
妻は頑なに拒否しつつサラダや豆スープだけを摂っていた。
「・・・・・・? カリン、砂トカゲ食わナイか??
カルタいっしょーけんめ狩ってキタぞ」
「メインディッシュ、食ワナイ。でぃなーの意味ガ、ナいゾ?」
「いや・・・あの、・・・あははは・・・」
日常的に食べ付けているらしいカルラまで加勢に入り、伽藺は少々断り辛い雰囲気を感じていた。
「アッシュもタクサン食うガイイぞ!」
「ふん、ハーブと塩などというしけた味付けよりも、ソースと胡椒の方がよほど美味そうなものだが。
まぁいい、物足りないが食えない味ではない」
「ソカ! じゃア次カラ、ソウする!!」
素直に頷くとそのまま、カルタは使用人づてのシェフを呼び出し、何ごとかをごにょごにょと耳打ちしていた。
◆
会食も進み、皆の腹がそろそろ、膨れて来た矢先。
「さて、お兄様? それからお義兄様」
同席していた妹たちのうち、一番年長だと思われる娘が口を開く
一見すれば静かな才女という雰囲気に見えたが、口を開けば出て来たのは流暢な大陸共通語だ。
その声は澄んでいて耳触りこそ良かったが、内側に込められたはっきりとした拒絶の意志からは、
決して二人・・・そして新たなる子供たちを、歓迎していないことがわかった。
「名前くらい名乗って下さってはいかがかしら」
「カリンとアッシュだって、カルタ言ったヨ!」
頬を膨らませながら叫ぶ妹を睨み付け、今はあなたに聞いているのではありません」とぴしゃりと遮る。
長女だとおぼしき妹・・・は、母親譲りの亜麻色の髪を掻き上げて耳に掛け、怜悧そうな目を細めた。
「ちなみに私はジリエッタ、通称ジータ。姉妹の中では長女で16歳。
忙しい両親に代わり家のことを取り仕切っています。当主代理という肩書きをいただいていますわ。
そちらの賑やかなのはカルティータ。すぐ下の妹…つまり次女に当たります」
「カルタのことだよー!」と、よく日に焼けた腕が振られる。
「それから、その下の妹がジリアン。10歳になったばかり。家族からはジーナと呼ばれています。
普段は神殿にて修業の日々を送っていますが、今日は特別に呼び寄せました。
・・・今、病身にある母に何かあれば多分、この娘が夢見を継ぐことになるのでしょう」
紹介された少女は、大きな瞳をさらに大きく見開くと、慌てて頭をぺこりと下げた。
髪は伽藺と同じく祖母譲りの深い緑色で、また肌は姉妹の中では一番白い。それだけ外に出ていないということなのだろう。
顔立ち的にも伽藺によく似ており、もう少し長じればきっと、姉妹の中では一番似て来るのかも知れない。
おっとりとした大人しさと、内に秘めた頑固さもまた、同じように見て取れた。
「それからカルレイア。妹としては一番年下の8歳。けれど魔導師としての適性が高く、
もう神殿回りのご用聞きとして活躍しています。
夢見の才は受け継がなかったようなので、神殿の内側に入って働くことは、無いようですが」
表情を一つも変えず、カルラが深く静かに頭を下げた。姉妹の中で唯一の藍がかった黒髪が揺れる。
神殿で見た示蓮によく似ているから、彼女は完全に父親似なのだろう。
だからかどうかはわからないが、カルタ以外の姉たちからは少々、距離を置かれている様子も見て取れた。
「それから末子にして長男、あぁ失礼・・・血縁的には貴方とそのすぐ下の方が、いらっしゃいましたわね。
では三男になるのかしら。どちらにしても時期当主であることには変わりありませんけれど。
・・・弟のジュノー、5歳です。私は親しみを込めて、ユノと呼んでいますけれど」
名前を呼ばれた子供は「あいっ! ゆのれす!!」と元気良く挨拶を返した。
そんな無邪気な彼の様子とは裏腹に、長姉の表情には『今更、長男が帰って来たところで』という意志が見え、
伽藺は『あぁ、そうだよねぇ』と納得した顔をしていた。
「そうですね、改めて自己紹介を致しませんとね。
私は伽藺、旧姓では暮蒔 伽藺。知っての通り貴方たちの一番年長の兄に当たります」
ナフキンで口元を拭うと、静かに名乗って頭を下げた。
そして柔らかな微笑みを浮かべ、最年長の妹に視線を向けた。
「けれどもう私は、結婚という形で、他家に入った身です。
貴方たちとは血縁以外、基本的に繋がりはないと思っていただいても、結構ですよ。
子供たちのことも、成人まで育てていただければ、それ以上は何も望みません」
冷たい態度にも、動じずに返して来た長兄を見て、ジータは剣呑そうに眉根を寄せた。
「そしてこちらが夫のアッシュ・クイン。もう聞き及んではおられるかも知れませんが、
私は普段は女性としてクイン家の妻たる生活を送っています。
戸籍ももう・・・女性のものを作っていますし・・・」
「女性・・・。まぁその辺りの事情は、突っ込んでお聞きしないで、おきましょう」
「お心遣い、感謝いたしますね」
ふむと彼女は鼻を鳴らした。
どうやら家督や財産を狙っての来訪でないことは、一応納得したらしい。
しかし。だからといって急に諸手を挙げて、賛成する気になれるわけでもない。
「こちらでの成人年齢は、15歳ですがいいのです?
お約束の内容だと、その日を過ぎればあとは一秒たりと、援助は出来なくなりますが」
「構いません、私の育った里での成人年齢は家によって差はありましたが、早くて12でしたから」
「そう。成人してしまえばもう、家を出て行っていただくことに、なるかも知れませんが」
「当然です」
やはりにこりと。それこそ満面の笑みを浮かべ。
「立派に働ける心と体に成長してまで、親族に甘えるような子供なら、捨ててくださったほうがいいでしょう」
「そう・・・、ですわね。・・・了解しましたわ」
どう文句を言って話を取り壊してやろうか、あの手この手で神経を逆撫でしようとするが、
伽藺は泰然としたものだったしアッシュは面白そうに眺めている。
寧ろジータの方が苛付きを隠せなくなって来ている。
「トカゲ冷めちゃうヨ? 食ワないの~??」
緊迫した空気を一瞬で壊したのは、目前にご馳走を並べられたまま食事が中断されたことで、
ひもじい思いを噛み締めていたカルタだった。
胃がきりきりと痛むような空気の中で、沈痛な顔を並べていた姉妹たちにとって、
この言葉は助け舟となった。
幼いながらも、重苦しい緊張感を感じて泣きそうになっていたユノは、
「かるたおねちゃ、とかげとって~」と小皿をカルタに回した。
カルラやジーナも和やかに雑談を始め、ジータが話を続けることの出来ない空気に、持ち込んだ。
そんなこんなで、決してリラックスしているとは言えない状態であるものの、
会食はどうにか無事に終了した。
腕利きのシェフに調理された高級な料理や酒が振る舞われたはずだが、
伽藺はあまり味わう余裕が無かったので、デザートのうちのいくつかを夜食用に取り分けて貰った。
◆
食後を見計らったかのように、サーシャが食堂に訪ねて来て、子供たちの様子をまくし立て始めた。
リンネは離乳食どころか、サーシャやサリアのまかないにまで、手を出そうとしたとか、
アルクは甘味を加えたミルク粥以外口に入れなかったとか。
気圧されてしまいそうなマシンガントークだったが、今だけはこの老婆の押しの強さが頼もしかった。
彼女に任せていれば他の者に多少疎外されようが、子供たちを守りきってくれるような気がしたから。
「お二人は食事が済んでから、サリアの子守唄を聞きながらお眠りになりましたが、連れて来ますか?」
「いえ、今晩は私たちがいなくてもあの子たちが過ごせるか見てみたいから、明日の朝までお願い出来ますか」
「心得ました、サリアにもいい勉強になるでしょう。
お坊ちゃまとお嬢ちゃまは責任を持って、私どもが預からせていただきますとも!!」
どんと厚い胸を叩くサーシャを、伽藺は頼もしげに見ると頭を下げた。
そして姉妹たちも帰途につくというので、夫婦も用意された寝室に向かおうと、食堂を後にした。
玄関でもやはり元気に、カルタは大きく手を振っていた。
「カリン! アッシュ!! カルタ帰るからナー!
・・・アッシュ、明日アサ時間アッタラ、トカゲ狩りにイカナイカ?」
「いいぞ。狩りとは面白そうだ」
食事の間に、狩りの話で盛り上がっていたと、思ったら。
活発なカルタは、アッシュとの約束を取り付けられて、飛び跳ねんばかりに喜んでいた。
柔和な伽藺より威圧感のあるアッシュの方が、カルタの『理想の兄』像には近いのだろう。
「カルラも、イエ、帰る。マス」
「失礼致しますわ、兄様、それから義兄様」
物静かなカルラの挨拶に被せるように、尖った声音でジータは吐き捨て、ジーナとユノの手を引いた。
しかしジーナはその手を引っ込め、たたっと小走りに姉との距離を空けた。
「ごめんなさい、姉様。あたし、もう少しだけ兄様に、お外のお話聞きたいの」
当然従うと思っていた、気弱な妹に逆らわれ、ジータは驚いたように目を開く。
ユノもそれに乗じて「ボクも、おとおとといもおと、みにいきたいー!
それからひさしぶりに、サーシャおばあちゃんに、ごほんも読んでもらいたい!!」と、
彼女の手の中から脱出する。
「・・・勝手になさい!
けれど気をつけなさい、外の世界の男はいくらおとなしく見えても、油断も隙もないんだからね!!」
ジーナとユノにその言葉だけを投げ付けると、ジータは大股に玄関から出て行った。
他の姉妹の退出も苦笑いで見送ると、「サーシャおばあちゃんのところにお行きなさい」と、
ジーナはユノに子供部屋への道を促した。
ユノが走り去ると少女は振り向き、少し困ったような笑顔を見せる。
「ごめんなさい、いきなりわがままを言って。
でも姉が・・・失礼なことを言ったから、お詫びをしなきゃと思って・・・」
ぺこりと小さく、頭を下げる。
しかしその様子を見て、アッシュが抑えきれなくなったかのように、大きく響く声で笑い出した。
「くく・・・っ。・・・はっはっは! 面白いな本当に!!」
「え・・・?」
伽藺とジーナ。二人が同時に目を丸くする。
「親もそうだが妹もよく似ている。特にあの気の強いのは、怒った時の貴様にそっくりだ。
・・・愉快な家だな?」
「愉快・・・、です・・・か?」
伽藺が複雑な表情で頬を掻き、ジーナはどう反応するべきかと、アッシュの様子を伺っていた。
「実に家族愛としがらみの強い家柄のようだ。
貴様が女で来たらば、より嫉妬心に油を注いだだろうか」
「うぅ・・・、悪趣味ですよぅ・・・」
糾弾しても、それが褒め言葉にしかならないことを、伽藺は知っていた。
二人を交互に眺めている妹に軽く頭を下げると、「こういう方だけど悪気は無いんです」と、
小さな声で弁解を入れた。
「あ・・・、は、はい・・・。
し、失礼な発言に気分を、害されていないなら・・・、助かりました・・・」
何か一言発するたびに、何か怯えるような風情を見せる妹は、常々姉に威圧されているのだろう。
「ふん。子らにとっても、多少の疎外感などあったほうが、サバイバルとなって良い。
でないと心が逞しく育たんからな。
・・・なに、俺の子なら女どもに何と言われようが、ものとするものか」
「もし私に似ていると、些細なことでも気にする子に、なりそうですが?」
「そこは俺に似せておけ」
夫の無茶振りに、「あぅ~、今さら無理です。もう産んでしまいましたから」と、
がっくりと伽藺が返す。
まだ産んでいなかったとして、そこは調整出来る部分なのかどうかは、わからないが。
「そうだ、かりん。子らに手紙を書いておくのはどうだ?
なんなら俺を悪者にした小説を創作してもいい。
さすれば母を愛し父を憎む、典型的な子らができあがるだろう」
良いことを思いついたとばかりに、楽しそうに提案するアッシュ。
「え・・・。手紙は元より、書いて預けておくつもりでしたが、さすがに創作小説は・・・;
外の世界に出るのなら、こちらをお尋ねなさいと、心当たりを連ねておくだけです。
どうやらあの様子では約束の15歳が来たら、有無を言わせずほうり出されそうなものですから」
「む・・・。そうか・・・」
実のところ、アッシュなりに伽藺の気持ちを和ませようと、冗談を言ったつもりなのだが、
当の伽藺には通じなかったらしい。
少々残念そうな顔をしながら、妻と同じような表情で見上げている、少女の方に向き直る。
「しかし、話とはそれだけか? 楽しませて貰ったことだ、詫びは別にいらんぞ」
「あ・・・」
ジーナの様子に、まだもう少し話があるのだということを、見て取る。
ただ生き別れていた、兄妹の時を埋めたいだけかも知れないが、混み入った話もあるのかも知れない。
アッシュは気を利かせることにした。
「家族同士の話ならば俺がいないほうが、心おきなくやれるのではないか?
夜風に当たり散歩でもしているぞ」
「貴方・・・」
気弱げに瞳を細めた、伽藺がよく見せる表情。
それはアッシュにとっては、儚げで保護欲をそそるものであった。
「心細いというのならば、居るだけは居てもいいが」
そう付け足したのは、助けを求めるなら手を差し伸べるぞという、シグナルだった。
けれど伽藺は妙に遠慮してしまった。
アッシュを一族の愛憎に巻き込んではならないと考えてしまったのだ。
「いえ・・・大丈夫です。
・・・ジーナ様でしたっけ、夫は特に同席する必要は、ない話なのですか?」
「あ、は、はいっ・・・。ね、姉様の態度に、お怒りになられてないの、なら・・・」
「あは・・・それは、寧ろ面白かったよう、・・・ですよ」
苦笑しながらそう伝えると、伽藺はアッシュに背を向けた。
そして振り返り、一言だけを告げ。
「では貴方・・・。少し・・・長いお話に、なるようですから・・・」
◆
兄妹が立ち去った後、アッシュも大きく息を吐くと、外に出て庭を一回りすることにした。
伽藺にとっては20数年振りに帰って来た生まれ故郷だ。
そしてずっと生き別れていた姉妹たちだ・・・。
積もる話もあるだろう、自分のような愛想無しの第三者がいては、話せる話も話せないかも知れない。
そう考えて身を引いたのだが、本当にそれで良かったのだろうか?
「良かったのだ。俺の判断が間違っている筈はない」
門戸に絡む、薔薇によく似た花を咲かせた多肉植物を見上げながら、アッシュは呟いた。
なのに何故胸騒ぎがするのだろうか。
伽藺の不安げに揺れていた瞳を、どうして思い出してしまうのだろうか。
「・・・戻っておくか」
起きていては余計なことばかりを考えてしまいそうで。
アッシュは寝室に戻り、仮眠を取りながら、伽藺の帰りを待つことに決めた。
案内されるがままに、高級住宅地を通っていると、大きな噴水のある市民公園に出た。
噴水の中には水着を着た老若男女が戯れ、ちょっとしたプール扱いになっているようだった。
もともとはカテリーンが発見した小さな水場から発展し、しっかりとした地下水脈があったから、
街にまでなった場所らしい。
「そう・・・。この街を造るための、水場を発見したのが母上、なのですか・・・」
『夢見師』という存在が、どのようなものなのか、伽藺にはあまりわかっていなかった。
占い師のようなものだろうか、と予想はしていたのだが・・・。
どうやら思っていたよりも、具体的な効果でもって、人々を導くようだ。
「たしかにこのような、季候風土の厳しい土地ならば、人に見えないものを視る力や、
未来を予測する力は重宝されるのでしょうね」
そんな特別な力を、信仰の対象とされ。
人々を救いながらも、自分のことだけは救えず、ただ倒れ伏している母。
「貴様に、よく似ていたな。化かされた気分だ・・・」
「えっ」
アッシュがしみじみと、噛み締めるように呟く。
「そんなに似ていました? 自分ではよく分かりません・・・。
ただ想像していたより随分と弱っていて、あぁ老いたんだなぁ・・・と
・・・20年という年月を感じました」
夫にもたれるように寄り添ったまま、伽藺は高い位置にあるその顔を見上げた。
20年後。自分たちはもう、そんな未来を迎えることは、ないけれど。
もしその時まで生きていたら、この人はどう歳を重ねたのだろう。
子供たちはどんな大人になったのだろう。
自分は・・・さらにあの母親と、そっくりになったのだろうか?
「私と、母と、・・・どちらが早いのでしょうね。
でも・・・会えて良かった。
・・・良かった、・・・のかな?
母上としてはどうだったんだろう、私は会いに来て・・・良かったのかな」
いろいろなことがあり過ぎて。いろいろな気持ちが湧き過ぎて。
混乱している自覚が、伽藺には確かにあった。
「どうして疑問形なのだ」
夫に問われて、驚いたように、瞬きをする。
見上げる先には心底、不思議そうな顔。
アッシュからすれば純粋に、伽藺のネガティブさが不可解であった。
あれだけ分かり易く、親の愛情を受けておきながら、何故まだ迷惑だったかなどと、
考え込むのか。
「忘れるなと言われておいて、もう忘れたのか?
貴様の訪問でどれだけ喜んでいたか、さすがの鈍い貴様でも分かっただろう。
生き別れていた親との再会を、もっと素直に喜んだらどうだ」
がしっと頭を抱え込まれ、少々乱暴に撫でられた。
「あたた、あた、そ、そうですね、って・・・。
フードがくしゃくしゃになります~!!」
元気付けようとしてくれる夫の様子が、伽藺の心を少し明るくさせた。
そう・・・反芻してみれば、母は確かに喜んでくれていた。
父も所在なさげにはしていたが、強い拒絶は示していなかった筈だ。
なら何故に自分はこれほど、気弱になっているのか。
「あっ・・・」
そうか、と。伽藺は気付いた。
気弱になっているのではない。
心配していた再会が、思いの他いい形で終わって、だから・・・。
だから少し拗ねてみたかったのだ。
そうすれば母が、そして父が改めて、抱き締めて撫でてくれるような。
子供の時からずっと持っていた、孤独感や無価値感に気付いて、
空白だった時間の分も甘やかしてくれるような。
・・・そんな、気がして。
「ふふふっ、そうですねぇ。
私もまだまだ子供ですよねぇ、歳だけはとっているのに」
「ん?」
夫の手に自らの両手を添え。
「こうして、抱き締めて撫でてくれる人が、今はちゃんと自分にもいるのに」
「?」
孤独が友達だった自分は、もうどこにもいないではないか。
「俺が貴様を抱き締めて撫でる? 何を今更・・・当然のことを??」
「ふふ、ありがとうございますね、レオン」
「だから何故そこで礼を言う」
頬を少し染めて夫が顔を逸らす。その先には市民公園の噴水。
「この暑さだし貴方も飛び込みたいのではなくて?」
水遊びの好きな夫をからかうようにくすくす笑う。
無論、公園での水浴びは気持ちいいだろうが、泳ぐこと自体が好きなアッシュには、
この噴水では遊ぶというには少し狭すぎるだろう。
その会話を聞いてカルラは振り向きもせずぼそりと、
「水場ナラ家にモある、デス」と継げた。
そして。
公園から遠くない場所に建てられた、その白亜の大きな屋敷は・・・。
「これは・・・また・・・。
うちのお屋敷もなかなかだとは思っていましたが・・・」
確かに、プールの一つや二つはありそうな、豪邸であった。
まだ随分と新しいようで、壁に塗られている塗料も一つとして、剥がれていないし汚れていない。
伽藺が絶句していると何人かの使用人が出て来て、恭しく挨拶をしては建物の奥へと案内する。
その様子を見てカルラが言った。
「カリンは、ミオボえナクて、トウゼン。
ウチがこんなに大きくなっタのは、カルラが生まレテカラだと聞く。
昔は世話役のばあやトその息子夫婦がいタダけで、家モ少しオオキメのテント程度だったラシイ、
・・・デス」
伽藺がまだ幼い時代、この土地で暮らしていた頃は。
残念ながら伽藺にはその頃の記憶はもう、欠片も残ってはいないのだが・・・。
◆
世話役のばあやとやらが誰かはすぐに分かった。
使用人の一団の中から、ひときわ声と体の大きな老婆がやって来て、涙ながらの感動の再会となったからだ。
まず老婆は双子を鮮やかな手つきでひったくり、感無量とばかりにその柔らかな頬に、
自身の濃い色の肌を擦り付けた。
「まぁまぁまぁこのお方たちが新しい、お坊ちゃまとお嬢ちゃまでございますね!
なんと賢そうで愛くるしいお顔でしょう!!」
巨体の老婆の頬擦りにアルクは怯えたような迷惑顔を見せ、
リンネは『賢そうで愛くるしい』という言葉に反応したのかまんざらでもない顔をしていた。
「・・・む、ぬ」
乱暴に子供を抱き締める老婆を、アッシュは一括しようと口を開いたが、
すぐに次の老婆の行動を目で追い、一瞬にして黙り込む。
その視線の先にいたのはまぎれもなく、息を呑むような絶世の美女であったから。
「サリア、ちょっと坊ちゃまたちをお持ちなさい、落としては駄目よ、泣かせても駄目」
老婆に双子を押し付けられた美女は、慌ててその小さな体を受け取ると、困り顔で揺すってあやし始めた。
濃い色の肌はアッシュの好みではないが、それを補って余りあるだけの容姿と、グラマラスな肢体の女だった。
ただしその手足は折れそうに細く、赤子とはいえ二人もの子供を抱えると、不安定なことこの上無かった。
しかし老婆はそんなことは意にも介さず今度は伽藺にしがみついた。
「若さま、若さまですね! まぁまぁ顔をお見せ下さいまし!!
倭人どもにすぐにかっさらわれてしまいましたけど、若さまが生まれた時は私が取り上げたのですよ!?」
「ふえええええっ!?」
感動にうち震える老婆の勢いに伽藺は後ずさるが、全力のハグを受けてしまい背骨をぼきぼきと鳴らす。
伽藺も彼女のことを覚えているのなら、ここで互いに懐かしさを分かち合ったのだろうが、
さすがに離れた当時まだ幼児であった伽藺にこの乳母の記憶は無かった。
「はっさすがに私のことは忘れてしまいましたわね!」
困り顔に気付き、老婆は慌てて体を離して、一礼する。
「お久しゅうございます、カテリーン様の乳母を努め、その後若様の妹御たちのお世話を仰せつかって参りました、サーシャでございます。
こちらは孫のサリア。お世話係を志しておりますが、まだまだ未熟者でございます」
「あ・・・、は、はぁ・・・」
サリアと呼ばれた女も紹介され、小さな声で「どうも・・・」と呟き、小さく頭を下げた。
口から生まれて来たようなサーシャと違い、内気で無口なタイプのようだ。
見た目も、巨体のサーシャに比べサリアは線が細く、現時点では肌の色以外に似ている部分は、欠片もないように見えた。
「お孫さん・・・ですかぁ・・・」
「えぇ。さぁサリア、もっとしっかり、きちんと挨拶おし!!
まったくあんたは、私の若い頃にそっくりなくせに、こういうところは全く正反対なんだから」
「ええっ;」
どう返していいかわからず伽藺がまごまごしていると、改めてサリアが蚊の鳴くような声で挨拶をした。
そのまますぐに黙ってしまい、黒に近いほどの濃い褐色の肌でもわかるくらい、頬を真っ赤に染めて俯いてしまった。
「あ・・・ひょっとして、あがり症なのですか? ならどうぞご無理をなさらず」
「は、はい・・・」
「本当に情けない子で申し訳ありません。ですが、働き者であることは間違いないですし、愛情深い性格ですから。
私にはこのお家の幼い坊ちゃまのお世話がありますので、よろしければこのサリアを伽藺若さまのところの、
お坊ちゃまとお嬢ちゃまのお付きにさせたいと思っております」
「ほう」
背後から口を挟んで来たのは、サリアを眺めていたアッシュだった。
その容姿の美しさにしばらく目を奪われた後、子供の抱き方やあやし方を観察していたらしい。
特に機嫌も損ねていないということは、その手際が決して悪くは無かったのだろう。
「・・・頼んだ。
かりんに似て、利発な子らだ。粗相をしたら遠慮なく叱っていい。
美女に育てられれば、目も肥えるだろう」
はっきりと美女と言われ、さらに肩を小さく竦めて、縮こまってしまった。
それでも両手に抱えた子供たちは、しっかりと落とさないように、持ち上げていたのだが。
伽藺の半分の太さくらいしか無さそうな腕で、それでもまだ何とか安定した姿勢を保てているので、
言葉に偽りはなく真面目に世話係を志しているのだろう。
「ええと・・・確か若さまの、ええと、だ・・・旦那様?」
サーシャにも一応、関係については軽く伝えられているようだが、いまいち良く掴めていないらしい。
男同士の夫婦に何故子供がいるのかも、サーシャの知識量ではいまいち想像がつかないが、
そこはそれ使用人として主人の事情には、あまり深入りしないようにしているようだ。
「お子様たちのお世話は、このサーシャとサリアが引き受けますからご心配なく!
安心して新天地を探す旅に出て来て下さいな。若様をどうぞよろしくお願い致します!!」
どうやらそういう形で説明を受けているようだ。
まさか死出の旅になるとは、カテリーンは話していないらしい。
エキセントリックな性格をしていそうなサーシャが騒ぎ出さないようにとの配慮なのだろう。
アッシュは「あぁ」と軽く一言だけを返すと、さらに何事かを喚き立てる老婆から、すっと視線を逸らした。
他人に賑やかに騒がれるのは耳障りであまり好きではない。
確かに子育てをする上でこの老婆の明るさは一財産なのかも知れない。
しかし子供にもそこそこの朗らかさならいいが、あまり騒がしくは育って欲しくないアッシュとしては、
直接の世話役が彼女でなく物静かな孫娘であることに、胸を撫で降ろさざるを得ないのであった。
「それでは今、シェフが腕を奮っておりますから、もうしばらくお待ち下さいな。
そうだ、お風呂を沸かしておりますから今のうちに、砂埃でも落として来てはいかがです?」
言われてみてそういえば、肌がざらざらしていることに、気付く。
汗のせいもあるが、それは熱気によって随分と早く蒸発したようで、べたべたとした不快感は無かった。
ただ砂漠地帯だからか風に砂が混ざっているようで、それが乾いた汗で衣服や肌に貼り付いてしまうらしい。
「・・・では、お言葉に甘えましょうか」
伽藺は無類の風呂好きである。
アッシュは元々は風呂よりシャワー派で、漬かるなら湯よりは水の方が好きだったようなのだが、
妻に付き合っているうちにゆったり湯に漬かることも嫌いではなくなった。
子供たちも湯浴みをするらしい。
今日は世話と子守りの練習も兼ねて、サリアが沐浴をさせてみるという。
なので、伽藺とアッシュはゆっくりと時間を忘れて、水いらずの入浴を楽しむことにした。
◆
清潔な匂いのする部屋着を渡され、まるで公衆浴場かと思うほどの、大理石造りの広い風呂場に案内される。
壁一面に水槽があしらわれ、色とりどりの珍しい熱帯魚が、放されていた。
「・・・・・・;
な・・・なんというか、いろんな意味ですごいというか。
南国・・・のセンス・・・、・・・なのかしら?」
浴槽の角に据えられた、ライオンと人魚の合いの子のような彫像が、口から湯を吐き出す音が響く。
「ふん、気に入らんか?
俺はなかなか悪くない趣味だと思うが」
「ははは、そう・・・ですか」
風呂といえば、岩造りか檜造りというイメージを持つ伽藺にとって、白い大理石の風呂はまるで、
プールで入浴しているような気がして落ち着かない。
しばし呆然と見ていたが、夫の顔を見上げると、何か少し諦めたように微笑う。
「は・・・、入りましょうか、お風呂・・・;;」
「あぁ」
アッシュはもう既に服を脱いでいたらしく、筋肉の盛り上がった逞しい肩に軽く湯を掛けては、
ざぶんと大きな音を立てて浴槽に沈み込んだ。
「うむ、悪くない湯加減だ」
「そ、そうですか? なら私も・・・」
伽藺も大慌てで服を脱ぎ、脱衣籠に自分と夫の衣服をどちらも畳んで乗せ、
髪を頭頂でまとめるとタオルを持って後を追った。
「急ぐな、滑って転ぶぞ」
「こ、転びませんっ!」
そう言いながら掛け湯をし、体を洗うべきかどうか少し迷ったものの、
夫が漬かっていたので先に湯船を使うことにした。
「・・・ふあぁ。少しぬるめにしてある辺りが、またほ~っとしますねぇ」
言いながら深く息をついて、夫の胸板に身を預けた。
「しかし・・・想像より、栄えた家柄のようだ」
浴場をぐるりと仰ぎ見てアッシュが静かに呟いた。
確かにこのような浴場など、壁の水槽の維持だけでも随分と手間がかかるのだろうに、
それを別宅に作ってしまうというのだから、気前がいいというか何というか。
本宅に至ってはどのようなインテリアになっているのか。
「これなら、野生的な意味では逞しくは育たんだろうが、野垂れ死ぬこともないだろう。
このまま穏便に事が運べば、無事・・・安心できる」
子らの行く先や妻の心境に想いを馳せながら、天井を仰いだ瞳を静かに閉じた夫を見上げ、
伽藺がおずおずと言葉を紡ぐ。
「気になるのは、そこなんです」
「・・・ん?」
「想像よりも栄え過ぎている。
そしてこの家もですが、街がとても・・・綺麗・・・」
建物も、公園も。この街にあるものはみんな、あまりにも綺麗に過ぎるのだ。
「きっとまだ造られて、10年も経ってもいないのでしょう。
カルラ様もそのような事を言っていた気がしますし。
それが何を意味するのか、違和感を持つべきなのか、神経質になりすぎなのか。
まだ私にはわかりませんけど・・・」
小さく俯き、自分でも理由のわからない、違和感の正体を探る。
「母上についてもそう、再会を心から喜んで下さっている。
それは、私にもわかるんです、でも・・・。
・・・何なのかな。何かがしっくり来ないんです」
「しっくり来ない? ふむ??
よく分からんが肉親だからこそ、感じる違和感があるのだろうか」
夫の誰何にもすぐには答えることが出来なかった。
何故、不安感が募るのか。何故素直にスムーズな旅路を、喜ぶことが出来ないのか。
自分でも理解が出来なかったから。
「そうですね、肉親だからこそなのかも。
たった10年もかからずに築かれた街、たった10年もかからずに積み上げられた富。
大都会の財閥や会社なら、そんなサクセスストーリーも有るかもしれませんが、
ここは次元の狭間・・・しかも砂漠地帯。つい最近まで閉鎖されていた世界。
外との関わりはあれど決して、人の多い土地ではありません」
であるにもにも関わらず、この栄えっぷり。
そして病に倒れ臥した、その崇拝対象たる母。
何かが隠されている気がする。
そんな中、呑気に子供などを預けてしまって、いいものかどうか。
「あは・・・。
上手く行き過ぎると不安になる癖、改めた方がいいですよね。
なんだろう、強いて言うなら、上手く行き過ぎる?
20年の歳月があまりにも、簡単に埋まり過ぎている気が、するんです」
えへへ、何かおかしいこと言ってますよね、と。
夫が肩に置いた手に、自らの手を重ねる。
「ううむ。貴様が幻術師であるからこそ、感じる矛盾点でもあるのだろうか?
俺もまやかしなどにかかるつもりはないが、観察眼や感受性に関しては貴様が豊かだ。
何か気になることがあったら報告しろ」
「・・・ん、そうです、ね。何か・・・、また違和感があったら、その時に・・・」
伽藺は、正体のわからない不安感を追い出すかのように、夫にしがみついて深くキスをした。
女性の体の時とは、微妙に感触の違う滑らかな舌が、アッシュの口腔内で遊ぶ。
抱き合って絡み合い、白い大理石の浴槽の中で、舌同士を絡ませていると。
ガラッと大きく響く音がして。
勢い良く、浴場の扉が開かれた。
「おぉーっ! カリンとアッシュは風呂カ!!
カルタも入るゾ、砂で全身ガ、パサパサだー!!!
・・・・・・う?」
ぴったりと身を寄せ合った夫婦が無言で、呆気に取られた顔で見つめているのを。
良く締まった手足を広げ、腰にタオルを巻きつけただけの姿の少女は、首を傾げて見ていた。
それからすぐに「いけませんっお嬢様!!」という女使用人たちの声が聞こえ、
彼女はずりずりと引っ張られ、多勢に無勢で抵抗むなしく、遠ざかっていったようだ。
「なんでダー!? カルタのオニチャンだぞ! 一緒におフロしてもイイはず・・・!!」
「いけませんっカリン様もアッシュ様も男性です!
さぁこちらに・・・」
「エエェエエエエエェェ!? だっテ、ジュノーとは一緒に、おフロ入るぞカルタ!!」
「ジュノーお坊ちゃまは、まだ幼うございますっ、さあこちらに!」
「いやあああああァァあァ!!!」
そのままフェードアウトしてゆく声。
そして女使用人の一人がひょこりと戻って来て、深々と頭を下げた後に恭しく扉を閉めた。
「・・・・・・」
「・・・なんだなんだ、随分騒がしい家だ」
「はは、そう・・・ですね。・・・さすがに14歳の妹と裸のお付き合いは、問題ありますよねぇ;」
湯煙の向こうに見た肢体は同年代くらいの少年とたいして変わらなかったか、
むしろことさらに筋肉が付いて逞しいような気もしたのだが。
多分そういう問題でもないのだろう。
「・・・かり・・・ん?」
鈴を振るかのような。
細く高いと夫に評される、女性時の伽藺の声によく似た。
しかしそれよりも、さらに頼りなげな声が問い掛ける。
恐る恐ると、そして・・・おずおずと。
ベッドの天蓋の中で、小さな影がもぞりと起き出す。
その姿は明かり取りの窓からの間接光に照らされ、まるで影絵のように見えていた。
小さな、とても小さな影だ。小柄なんてものではないかも知れない。
伽藺は固まったように動かない。返答がないことを不安に思ってか、声はもう一度名前を呼ぶ。
衛士長に肩を叩いて促され、ようやっと伽藺は足を進めた。
「お久しゅうございます、母上」
「かりん・・・、なのね・・・? まぁ、すっかりもう、大人の声ね。
お願い・・・もう少し、こちらに来て・・・?
ママに、お顔を、見せて・・・??」
まるで幼児に話すような口調。いやそもそも彼女自体が、『幼児のような口調』だ。
伽藺の母であるのだから、どう若く見積もっても、40は越しているはずだ。
長命の種族だとも聞いてはいない。
だが、声と話し方だけではどうにも、年齢や容姿がイメージ出来なかった。
伽藺がゆっくりと近付き、天蓋に引かれているカーテンを引く。
後ろで見ているアッシュには最初、細い細い手首しか見えなかった。
細い腕に幾筋もの皺が寄り、まるで80過ぎの老婆のような手だ。
しかし伽藺がカーテンの引き幅を広げて行くうちに、ふわりと明るい亜麻色の髪と栗色の大きな瞳が目に入った。
夢見師・カテリーン。
結論から言えば、年齢よりは確かに若く見える顔立ちだ。
外見年齢が20歳ほどの伽藺と並んでいても、たいした差は感じない。
むしろ母の方が、表情や声音から若く見えることさえ、あるかも知れない。
確かにそっくりだ。
かつて見た絵姿の頃からさらに歳を重ねていることが、余計に伽藺との顔立ちの差を小さくしている。
・・・しかし、痩せ過ぎている。
本来は丸いのであろう頬はこけており、眼窩は薄黒く落ち窪んでいる。
それでも、生き別れの息子に会うために化粧を施したのだろう、一見した頬や唇は薔薇色を湛えて輝くようだった。
だが、本来医師であるアッシュは彩られた部分よりも、
こめかみや首筋に浮かぶ、夥しい毛細血管や黄疸、内出血を見てしまう。
異常なほどに飾られた花々は、彼女の内臓が発する腐敗臭を紛らわすためだろう。
ふんわりと少女趣味なまでに装飾された寝間着の中の体は、不必要な肉どころか必要な肉さえも残ってはいないのだろう。
「本当に大きくなったわね、もっとこちらに来て・・・?」
保って一ヶ月というところか?
いや、寧ろよく生きていると、言った方がいいかも知れない。
「きりんは元気? 貴方と同じできっと、若い頃のパパにそっくりに、育ったのでしょうね」
もう少し出会うのが早ければ、何らかの医療技術の提供で少しは、進行を抑えられたかも知れない。
しかしもう腐臭どころか、死臭を放っているではないか。
この、街に、医師らしい医師は、いないのだろうか?
いたとしても宗教的な理由などで、出入りに制限がかかるのだろうか?
貴人の体にメスどころか、針を刺すことさえ禁じられるという、宗教もあると聞く。
死すべき女は、このまま・・・民どもに生命を刈り取られ、ただ供物となるべきというのか??
何も気にせずそれらを問うことは簡単であったし、それによって起こる波乱に物怖じするほど、
アッシュは小心者では無かったが。
ただそれをこの場でするのは無粋を極め、また彼女とその一族が得る花の栄華を、
穢すだけのように思われた。
「そちらのおおきな方は? どうぞ・・・側にいらして」
医師としての目で、遠目ながらも状態を見立てていたアッシュにも、ふと声を掛けられる。
改めて視線を合わせると、かつては健康的で美しかったのであろう女が、ふわりと微笑みを向けている。
憔悴しきったその身に不釣り合いな程、きらきらと夢心地に輝く、童女のような瞳。
恭しく帽子を取りながらアッシュが進み出ると、灰白色の癖毛が無造作にばさりと広がる。
その濃い褐色の肌色と長身が相俟って、見る者によっては威圧感さえも感じる風貌だが、
むしろ安心さえ感じているかのようにカテリーンは微笑んだ。
砂漠の民であるためか周囲に、濃い肌色で長身の者が、多いからなのかも知れない。
「初めて目にかかる」
低い声が静かに響いた。普段の話し口よりもさらに、起伏を抑えているかのようだ。
疲れやすいであろう病人への、この医師なりの気遣いなのだろうか。
しかし次に放った言葉はやはり彼らしい、常人からすれば突飛なものであった。
「かりんの夫だ。貴様の大事な息子を掻っ攫った」
「・・・はい」
一瞬、不思議顔で見上げたカテリーンであったが、すぐに笑みを取り戻して頷いた。
話の流れを理解しているのかいないのか、その浮世離れしたような様子からは、汲み取り難い。
「あの、ええと・・・、これは・・・」
慌てて何か捕捉を入れようと、口を開いた伽藺の方を向き。
「夢で見ていました」
と、カテリーンはさらりと、まるで日常のことを報告するかのように、答えた。
「え・・・、ぁ、・・・夢・・・?」
「あぁ、でも。夢でも詳しいことまでは、わからないのよ。
まさかこんなに立派な方だったなんて」
死相の浮いたような顔に似合わず、悪戯っぽく笑うと「旦那様のお名前を教えて?」と、
甘えるように伽藺に問い掛けた。
「あ、えっと、ア・・・」
『通り名』の方を答えようとして。
伽藺は少し口ごもり、そして短い逡巡の末に、言い直すことにした。
「レオン、・・・です」
普段は名乗らずにいる本名を伝えた妻に、咎めるような視線をアッシュは送ったが、
すぐに息を吐いて諦めることにした。
一度言い淀んで、それでも口にしたということは、伽藺にも思うところがあるのだろう。
彼の妻は、うっかりしたところも多分にあるが、決して考え無しなタイプではない。
(『嘘を吐きたくない相手』というものがあったということだろう)
夫の『死』に付き合うというのだから、そのくらいの我儘は許してやってもいいと。
アッシュはそう考え、これについてはもう、何も言わないことにした。
伽藺からすれば、本当はフルネームで紹介したかったのだが、さすがにそれは控えた。
絶縁されつつも夫が、それでも正式な場では、きちんと名乗るファミリーネーム。
夫が自身で決めた名も決して悪くはないし、軽視されていると思っている訳でも無いのだが、
その名を他者に紹介しまた自身も名乗るのには憧れがあった。
まぁ、本名には言霊が宿ると信じているが、さりとて強い拘りがある訳でもなし。
人妻としての憧れという程度の、たいして重要でもない事ではあったが。
けれど死ぬまでに一度は、名乗ってみたい名でもあった。
「そう、いいお名前。
ではレオン様。・・・伽藺をどうぞ最後まで、可愛がってあげてね」
『最後まで』と言った。
死出の旅に出ることはまだ、一言も伝えていないのに。
それも彼女は、『夢で見ていた』のだろうか。
「・・・・・・死ぬのか?」
じっと見据えながら。
アッシュは目前の、どう贔屓目に見ても長生きはしそうのない夢見師に、
単刀直入に問い掛けた。
「さぁ、どうかしら。自分の未来だけはあまり、夢で見ることも出来ないの。
でも・・・今はまだ死にたくないな。まだ・・・後継者が幼いから・・・」
少し困ったように首をかしげ、笑顔のままで小さく舌を出す。
こともなげな彼女とは逆に、大きく反応して気色ばんだのは付き添っていた衛士長だが、
カテリーンは「いいのよ」と静かに片手を上げて制した。
「せっかくだから貴方も、被り物を取ればいいわ。
親子水いらず・・・語らいましょう?」
衛士長はしばらく躊躇っていたようだが、他には誰もいないのだしとカテリーンが頼み込むと、
渋々という感じで全身を覆う白布を取った。
その下からは少し線の細い印象を持つ、しかし体は十分に鍛えているように見える、
砂漠の民とは違う民族の壮年男性が現れた。
彼を見て伽藺が少し、曖昧な笑顔を見せる。
衛士長の方が少し鋭利な印象を持つが、二人がどこか似ていることだけは、間違いがなかった。
「カティ・・・」
助けを求めるかのように、彼はカテリーンを見つめたが、彼女は無邪気な笑みを崩さない。
その楽しそうな顔は子供が気になる相手に対して、好意の裏返しの意地悪をしているかのように、
見えるほど。
「ふふ、だって貴方こうでもしないと、最後まで名乗らないでしょう?」
何かを諦めたかのように夢見師から視線を外すと、アッシュほどではないが威圧感のある瞳を細め、
どこかぎこちなく挨拶を始めた。
「示蓮(じれん)だ。夢見師・カテリーン殿の伴侶に当たる。
・・・レオン殿にはお初にお目にかかる」
表情は固いまま、眉一つ動かしはしない。
その様子からは息子の伴侶に対して、どういう感情や感想を持っているかというのも、
いまいち汲み取れはしない。
「伽藺は、・・・・・・久し振りだな」
「はい父上。お久しゅう」
父子の交わした挨拶は、ただそれだけであった。
伽藺もこの父に対しては、緊張もあるのかも知れないが、随分と無口になるようだ。
アッシュの知る限り社交的な妻であるが、実の親に対しては・・・いや親だからなのか、
言いたいことも言うべきことも言葉にならない様子が見て取れた。
「。」
アッシュに預けられていた、双子をふと見止めて、カテリーンの頬がふと緩む。
「その子たちね?
・・・娘たちには、ちゃんと話しておくから、安心して」
「え・・・あ、いえ。・・・まだ何も言って・・・」
「夢で見た、って、言ったでしょう?」
静かに首を振って頬笑む。
そしてアッシュに「もう少し、近付けて下さります?」と頼むと、
二つの顔をかわるがわる覗き込んで、その柔らかな髪を順番に撫でた。
「この子は、かりん。貴方にとてもそっくりね。きっと優しい子になるわ。
こっちの子はレオン様によく似ているのね。
まだ小さいのにもう、随分と賢そうなお顔をしているわね。
・・・ふふ、二人ともとても元気で、可愛らしいわ」
頬を撫でる冷たい手を、小さな二人は不思議そうに触っていた。
まさに生まれ出たばかりでこれから沢山の未来が待っている赤子と、
人生の灯し火を使い切って今まさに消えんとしている女。
示蓮は何といっていいかわからないようで、ただじっとその様子を見つめていた。
「はぁ」、と。
やがてカテリーンは大きくため息をつき、その小さな頭を羽根枕に深く沈めた。
「ごめんね、せっかく来てくれたのに、ママ少しはしゃぎ過ぎてしまったみたい。
もう眠たいわ・・・。
何かあれば明日にでも、・・・また来て・・・」
そう言葉を吐き出して閉じる瞼は、随分と黒く落ち窪んでいた。
「今日のこと、娘たちに、伝えておいてね。大体・・・私が言った通りだから」
示蓮が頷いた。
うっすらと開いた視界の端でそれを確認したカテリーンは、
その瞳を再び閉じると、まるで夢でも見ているかのように、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ出した。
「思い出すわ・・・。初めて貴方の訪れを、悟った日のこと。
私、嬉しくて嬉しくて。まだお医者様が見てもわからないのに、産院に駆け込んだのよ」
生まれた瞬間は驚いたわ。髪が若葉の色なのですもの。
でもこの乾いた土地の中で、きっと貴方はオアシスの神様に恵まれのだ、って思ったわ。
示蓮から祖母方の血だと聞くまではね。
・・・ずっと、ずっと・・・会いたかったのよ。
あの土地から離れる時。
私たちの力が足りなくて、連れ出しては来れなかったけど、それでもただ捨てた訳じゃなかった。
ずっと気に掛けていた。どんな顔をしてどんな暮らしをしているのかしら、って。
私は幸せになれなかったあの土地で、貴方は・・・幸せをつかめているのかしら、って・・・。
たまに貴方の夢を見た時は、夢の中の貴方と共に笑い、そして涙したわ・・・。
けれど、なんとなくの状況だけが分かる、でも口出しも手出しも出来ないというのは、
本当に辛かった。
孤独にあるのだろう時は側に飛んでいきたかったし、旅立ちを決意した時は本当に心配した。
苦難に遭っているのだろう時は、心の休まる暇が無かったわ・・・?」
ゆっくり、ゆっくりと。吐息に乗せるように静かに話す。
そんな女の声を聴きながらアッシュは。
かつての自分の両親・・・。
息子のことなど見向きもせず外に出てばかりいる母、虚空を見つめ母以外の何ものも瞳に映さない父を、
ぼんやりと思い出していた。
何をしても何を考えていても、誰にも関心を持たれなかった、少年時代。
両親がいて、豪邸と呼ばれる立派な家と、莫大な資産があって。
全てが揃っているように他人からは、見えていたのかも知れない。
しかしその実、何一つとして彼の心を、満たすものは無かった。
書庫を満たす蔵書に目を通せば、一時的な好奇心は満足したかも知れない。
生き物を捕らえて殺せば、書にしたためられていた内容の確認が出来、
また幼いながらにくすぶっていた嗜虐侵や優越感を、納得させることも出来た。
だがどれも一時凌ぎの暇潰しでしか無かった。すぐにアッシュの心は次の刺激を求めた。
自身が本当は『安らぎ』を欲しているのだと気付けないまま、
ただ、ただ、激しい『刺激』だけを、次々と求めていた。
そんな・・・。
居ても居なくても良い存在、として扱われていた自分に比べ。
家名を存続し、虚像を広げるために養育され、その役に立たないと判断されるや、
失敗作だとばかりに放逐された自分に比べ。
親は側に居なかったかも知れないけれど。
ただ捨てられたのだと、思い込んでいたのかも、知れないけれど。
けれど・・・確かに。
妻は生まれる前から望まれ、愛し合う男女の間に舞い降り。
そして、袂を分かち合った後もずっと、想われていたのだと・・・。
自分が愛するより随分以前から、強く深く愛されていた存在なのだと、思い知らされた。
しかし夫婦にはその後も、沢山の子が生まれたと聞く。
だから伽藺が必要ない、などということは彼らには、全く無縁の感慨だと思うが。
それでも、アッシュには。
アッシュの孤独を埋め苛立ちを癒し、安らぎを与えることが出来るのは。
枯れ果てていたはずの彼の『愛』を引き出すことが出来るのは。
『伽藺』、ただ一人しか、・・・いない。
近い未来。
その愛する妻と世間を隔絶させんと、自分が行おうとする行動に想いを馳せる、
アッシュの心を見透かしたかのようなタイミングで。
カテリーンが、伽藺に語り掛けた。
「かりん。
その命を貴方自身が、何に燃やそうかは、・・・自由よ。
私たちは何もしなかった、何も出来なかった。
貴方の命を、人生を育んできたのは貴方自身であり、また貴方の側にいた人たちだわ。
でもいい?
手放す時には、必ず思い出して。
貴方がその命を手にした瞬間、喜んで・・・涙した、まだ幼かった夫婦がいたことを。
貴方がこの世の空気を吸うその為に、身を裂く激痛と命を張って戦った、
一人の女がいたことを。
・・・一度だけでも、思い返してね」
「母・・・、上・・・」
返すべき言葉が見付からず、途方に暮れているような伽藺に、小さく微笑むと。
栗色の瞳はそのまま、傍らに立つ長身の夫に、移された。
「貴方も・・・忘れないでいてね。
もぎ取ろうとするその実は、決してありふれたものでも、安っぽいものでもないの。
少なくとも、私たちにとっては・・・ね?
だから、大切にして。
その子が自分から貴方のものになった以上、私たちが止める理由も手立てもないわ。
でも、味わうというのなら、・・・心から・・・味わって。
貴方にとってもそうでしょうけれど。
当然私たちにとっても、それは価値のある命なの・・・」
ただ幼く無邪気に笑っていた先程までとは違う、静かながら強い意志を感じさせる言葉。
こちらが本当なら彼女の本心、『正気』の部分なのかも知れない。
「・・・・・・。当たり前だ・・・」
アッシュからすればもとより、決して生半可な気持ちではなかった。
長くに渡り捜し求めていた自らの半身と、ずっと想い描いていた終焉を遂げる。
けれどその行為は、愛する子を奪われ殺される親からすれば、どういったものなのだろうか。
憎まれても当然。罵倒や殴打くらいを受ける覚悟は、とうに決めて来た。
実際はそういったこともなく、ただ、静かに流れる時間の中で、
妻とその両親の再会と思い出話を、聞くことになった訳だが。
だからこそ、覚悟を新たにしないといけない、と・・・感じた。
自分が奪い去ろうとしているものは。
自分にとって命より大事というだけではない。『誰か』の愛も、また受けていた存在なのだと。
「生涯・・・、大切にする・・・。
御両人、そしてこれの関わってきた数多くの者どもよりも尚、
俺はかりんを愛し添い遂げよう。死して尚、決して離しはせん。
・・・絶対だ」
片腕に双子を寄せて一気に抱えると、愛する妻の肩をぐいと抱き寄せ、
厚い前髪の下の強い眼差しで両親を見据えた。
伽藺は丸みのある頬に朱を乗せて、焦って一瞬逃れようとしたが、離しはしない。
意志ある母の声に応えるように口元を引き結ぶ。
大抵の人物の言葉には、愚弄と嘲笑でもって返す、アッシュにとって。
自身の本心を話す、嘲りも罵りもせず、誠意を込めた態度で返す。
それは最大級の礼儀であり、妻をこの世に産み出した感謝を、伝える手段であったから。
その妻である伽藺本人はどうやら照れているようで、言い訳がましい目線で父母を見ていたが、
母は厳しい視線の中に小さな諦め、そして柔らかな微笑みを最後に浮かべ。
父も相変わらず表情の掴めない顔で、真っ直ぐ試すかのように、我が子の夫を見ていた。
やがて、またあの無邪気な笑みを、もう一度浮かべると。
カテリーンは今度こそ枕に沈み込み、深い眠りの世界に落ちていった。
示蓮は布を巻き直すと再び『衛士長』の姿に戻り、
「予定より時間は早いが面会時間は終了だ」と息子夫婦に体質を促した。
伽藺は静かに頷き、部屋を出ようとした。
アッシュも続こうとしたが、ふと伽藺に双子を預けると踵を返し、
衛士長の前につかつかと進み出た。
自身の懐を漁ると、何種類かの粉薬を混ぜて調剤した小さなカプセルを取り出し、
メモに軽く処方を書き付けて小袋に分け手渡した。
「栄養剤のようなものだ。
余所者の施しを受け付けんならいいが、少しは長らえるかもしれんぞ。
・・・少なくとも、かりんにはよく効く」
体調を崩し易い妻が、砂漠の熱風にやられる可能性はないかと考えて、
常備薬入れの中に納めて来た栄養剤であった。
思ったよりも季候が悪くはないようなので、伽藺が倒れることもないかと踏んで、
それならと病身であるらしい母親に渡すことにした。
衛士長は薬をしばし見聞していたが、丁寧におしいただくようにして、その小袋を懐に収めた。
慎重に見極めようとはしているのだろうが、頭からいぶかしんでいる訳でもないようだった。
寄進物には全てそう対応しているのだろうが、丁寧な態度から多分粗末に捨てられるようことは、
無いだろうと思えた。
そして妻の元へと早足で戻ると、父との会話はいいのか、何なら席を外してもいいぞと、
双子を引き取りながら小さな声で告げた。
伽藺は静かに首を振ると「その必要はありません」と答えた。
来た時と同じように、奥の間全体を使った魔導エレベータに、一階まで降ろされると、
そこにはカルラが出迎えに来ていた。
すぐに奥に引っ込んだ衛士長の背中を挨拶をする間もなく見ていると、
カルラがの退室の報告ついでに、明日以降また面会に来た時の手順を説明するからと、
二人を受付に呼んだ。
複雑な手続きの説明を受けて一行は神殿を後にした。
アッシュは改めて伽藺に、父親と積もる話などは無かったのかと尋ねたが、
妻は大丈夫ですよと薄く笑うだけだった。
「心配なさらないで下さいましね、突き放している訳でも、突き放されている訳でもありません。
きっとあの方は、不器用な方・・・。
これ以上お側に寄ってしまうと、きっと困らせてしまいます。多分ね」
伽藺の言葉を聞いて、アッシュにもその気持ちは何となく、わかるような気がしていた。
「あの方の言いたいことは全て母上が言ったし、今までずっとそうして来た二人だと思うのです。
泣けない父のかわりに母が泣いて、笑えない父のかわりに母が笑ってきた。
そして父はそんな母を、ただ護ることだけを生き甲斐に、心の温もりにしてきた」
自分もそうなのだろうな、と、思う。
生育環境のせいか、それとも生まれついたものか。ひょっとして実家の血の呪いなのかも知れない。
『普通』の喜怒哀楽がわからない。
興奮か静謐、その両極以外の感情はどう発露すべきかわからないまま、妻に会うまで生きていたのだ。
妻に出会ってからは、世間的にいう『健全な感情』に近いものも、その表現法も学んだかと思う。
それでもまだ、思うことを完全に伝えるには、浮かぶ言葉が足りないし。
表情もよほど注意深く読み取れる者でも相手にしない限りは、
体格や肌色のせいか、鍛えてこなかった表情筋のせいか、威圧していると受け取られることが多い。
だからアッシュにとっては妻が。
伽藺が外界との窓口であり、伝えたくても伝えられない気持ちの、代弁者でもあったのだ。
失うことなど有り得ないし考えられない。ましてや他の誰かに渡すなど耐えられる筈がない。
もう妻は自分の一部になっているのだから。
義父にとってもそうなのだろう。
義母が彼の全てで、彼の体の一部で、人生の全部で。
「大丈夫、私は両親に愛されていた。
母の言葉を信じるなら、それは確かなはずです。
だから・・・、大丈夫です・・・」
伽藺の『大丈夫』は、大抵の場合において『無理をしている』というのと、同義語ではあったが。
今回だけはその言葉を、アッシュは信じようと思った。
伽藺自身が『大丈夫』だと自分に、言い聞かせようとしていたから。
返却されたべビーカーに双子を乗せると、ぽんと、妻の頭に軽く手を置いて、小さく撫でる。
さらりと落ちる真っ直ぐな深緑を指に絡めたら、えへへと少し照れたようないつもの顔を見せた。
◆
強い花の香気にやられてはいないか、よもやアレルギー症状などは出していないかと、
双子のバイタルを軽く診てはみたが、娘も息子もとても元気なようだった。
体質の強さは自分に似たなと、瞳孔をチェックしながら、安堵の息を吐く。
産まれる時はせめて見た目は美しくなれと、二人とも妻に似ることを強く願ったものだが、
この砂漠の街で今後成長することになるなら、多少は自分に似たほうが有利かも知れない。
最初に見た時はがっかりした、娘が持つ淡褐色の肌も、この季候では助けになるだろう。
むしろ、ゆで卵のような白い肌と桃色の頬を持つ、息子の体質が心配だ。
「貴様らもよく大人しくしていた。泣き出しやせんかと思ったが」
言葉の詳細はともかく、褒められていることは察知したのだろう、娘は元気に返事を返し。
息子は少し照れたように父親に笑い掛けた。
「コレから、なのダが」
先導して歩いていたカルラが、静かに振り返って言葉を発した。
どうやら、妹たちによる歓迎の準備が、もう整っているとの事。
今後もし子供を預かるのだとしたら、丸1日かけての様子の観察がしたいから、
少なくとも今晩くらいは泊まっていけとの、乳母の意向であるらしい。
クイン一家には滞在中、彼女たち一族が所有する別宅をひとつ、貸し出すという。
子供の様子を見るために乳母も泊り込むし、ハウスキーパーとして姉妹も訪ねるので、
家事の心配はいらないと伝えた。
「ふむ、俺も異存はない。
子らも物ではない。ハイドウゾと渡すわけにも、渡されるわけにもいかんだろう」
アッシュは、もっともだとばかりに頷き、ぐるりと周囲の景色を見回した。
砂漠のオアシスというには、かなり栄えているように、見える街。
来た時はゆっくりと眺める余裕も無かったが、街には随分な数の人々が居住しているらしく、
また神殿を出てすぐのこの辺りは高級住宅街らしく、身なりの良さそうな人々が行き交っていた。
夕刻。暑さの厳しいこの辺りではようやっと、過ごし易い気温になる時間帯ということか。
バザールが行われているらしい通りも、ごった返しているように見えた。
結果的に手放すことになるとはいえ、伽藺がアッシュのために産み出した、大切な子供らだ。
万遍なく夫婦に似ているところは、愛着を覚えまた行く末を楽しみにするに、充分なものだった。
愛しているかと聞かれれば首を傾げるが、粗末に扱われたいかと冗談でも言われれば、
その相手を有無を言わせず殴るだろう。
それは伽藺がアッシュのために作った料理でも、編んだベストでも同じなのであったが。
ならばしっかりと、育成される環境も見極めなければと、アッシュは思った。
気温や湿度は申し分ない。暑くて乾燥した程度の方が、彼の好みには合うから。
あとは、直接に手を触れるであろう乳母とやらの人となりと、属するであろう親族の状態だ。
「あぁ・・・そうですね・・・。風土、食事、生活習慣・・・。
この子たちが、ここで過ごして行けるかどうか、きちんと見て貰わなくてはいけませんね」
まだぼうっとした風情の伽藺は、力なくアッシュに寄り添った。
両者の了承を確認したカルラは前方に向き直ると、一家に貸し出す予定となっている別宅を目指し、
小さな足を再び進めた。
アッシュは目前に広がる街、そして白皙の建物へと視線を巡らせた。
「なんと、白い」
砂の舞い白日の照りつける、夢想的な光景に感嘆するように呟き、
そっと妻の手を握り締めた。
不安になっていたり、怯えているのではないかと、少し心配になったからだった。
それほどまでに、魔法陣に乗ってからの伽藺は、言葉をひとつも発さなかったから。
「いつか他国へ旅をした際は、馬車に揺られ、長い時間と長い距離を、
貴様と共に感じたものだが。
これだけ一瞬で移ると、呆気にとられるしかないな」
しかし、返事は無い。
「・・・? かりん、聞いているか??」
はっとその問い掛けに気付き。
「あ・・・、はい・・・。
あの馬車の旅はとても、素敵な思い出です・・・」
繕うような笑顔で告げるとまた、視線を一点に向け直した。
「・・・・・・」
視線の先を、アッシュも追う。
そこには街の中心を彩る、大きな大きな信仰の対象。
「まるで幽閉の塔だ。
此処に眠り姫たる、貴様の母がいるわけだ」
伽藺に似ているというからには、どこか儚げで今にも消え去りそうな、
慈愛に満ちた女なのだろうなと、アッシュは予想した。
いつかちらりと見た姿絵では、全くの子供のような姿であったが。
あれからほぼ30年に近い時が流れている。
まさか、妻の実親に浮気心は抱かないが、純粋に目の保養だと考えて、
美女と会うことを嫌がる男が居るだろうか?
「早く逢いたかろう。
自慢の息子どもを見せてやれ」
ぴくりとも動かない妻に声を掛けると、初めてぎゅっと手を握り返して来る、
感覚があった。
「どうしましょう、私、膝が…震えています・・・」
「ん?」
よく見ると歯の根ががちがちと鳴っている。
「母上に否定されたら・・・。
今は幸せだから、波風立てないで、なんて・・・言われたら・・・」
またはっと気付いたような顔をして、何でもないとばかりに笑顔を浮かべた。
「ふ、ふふ。私ったら何を、言っているのでしょうね。
もし母上に否定されたとしても、嫌われたと・・・しても、今までの生活が何ら、
変わることはないのに。
貴方だけは、私を否定しない・・・のだから、怖がることは・・・無い・・・のに」
自分に必死で言い聞かせるかのように。
そんな妻の様子を夫は、静かな瞳で見つめていた。
彼も、かつて。
「・・・分からんでもない。
生みの親に否定されることは、世界に否定されるに等しい。
当然の怯えだ」
握る手に、力を込める。
「だが案ずるな。
貴様は既に、親なくとも自ら否定を覆す力を、得ている。・・・そうだろう?
俺という伴侶も、他、数多くの絆も。
貴様自身、ただ一人で選択したものなのだから」
菫の色をした瞳が、夫を見上げて揺れている。
そう。
親が世界の全て、だった時期はとうに過ぎ。
今は自分が望んで親となり、子供たちの世界になっている。
夫にしてもそう。夫にとっても、今は自分が・・・。
『伽藺』が、彼の選び取った、たった一つの世界。のはず。
伽藺が選んだ『世界』も。今その手を握り返して来る、愛する夫が持つものだ。
「行くぞ、かりん」
「は、はいっ」
アッシュに導かれ、伽藺は砂塵の舞う未知の街に、足を踏み入れた。
夫の片手には、天蓋の付いた双子用の大振りなベビーカーが、押されていた。
かなり重い筈だが、アッシュは車体をふらつかせることもなく車を押しながら、
軽々と妻の手も引いている。
対しての伽藺は、家族と子供の着替えを詰めたバッグを抱えただけで、
もうふらふらと今にも倒れそうだ。
「リン、アル。大人しくしているのだぞ」
砂と日光を避けるための、透けた幕の中に見える、双子の影に声を掛ける。
それまできょろきょろと好奇心旺盛に周囲を眺めていた娘と。
警戒するように姉に身を寄せ、周囲の様子を伺っていた息子は。
揃って「あい」と返事を返した。
◆
「しかし、転移の術法、か」
未だに自身が一瞬にして転送されたという実感がないらしいアッシュは、
妙に居心地が悪そうにぼそりと零した。
「たぶん・・・、想像ですけれど・・・」
国を小さく傾げて伽藺は答える。
「ここは実際さほど私達のお屋敷からは、離れていないのではないでしょうか。
ただ・・・。結界といいますか・・・。
神をも騙して封じるような目くらましで、巧妙に入り口を隠されているような・・・。
そんな場所ではないかと思うのです」
そう伝えてもアッシュはやはりまだ不思議顔だ。
「よく、わからない、ですか?」
妖界という異界と繋がり。
そこから妖を召喚する伽藺には、肌で馴染んだ感覚なのだが。
けれど理論的に説明しろと言われると、改めて難しいことに気付いた。
『そういうものだ』と認識していただけに、自分もそこまでを考えたことが無いのだ。
「次元の狭間ってそういうものだと思います。
新聞紙をいくら繰り返し読んでも、裏面に書いてある記事は読めないような」
「ふん、馬鹿を言うな」
そんな伽藺のたどたどしい説明をアッシュは一笑に伏した。
「これだけ気候も空気も違って、同じ土地なわけがあるか。
空間は平面ではないのだ」
「あ・・・あうぅ、だからその~、同じって訳ではなくて、ですねぇ~・・・」
緊張する心を解すためか、二人がどうでもいいようなことを、討論し始めると。
ふと、さっきまで元気一杯だったカルタの足が、止まった。
「・・・? どうしました??」
伽藺が気付いて声を掛けるが、彼女は少し困ったような苦笑いを、返すだけだった。
「あ・・・アノ、カルタ、・・・な。神殿チョト苦手・・・。
ゆ、夕飯の支度・・・とか、してクルな。・・・バイバイ!!」
だっと駆け出す後姿を見送る二人に、道案内をしていたカルラがぼそりと告げる。
「カルタは・・・、面会ノ準備・・・ノ、ややこシイ手続きが嫌い。
オマエ様たちニモ・・・、スグ、わかル」
神殿の内部は見た目の印象より涼しく、それは随所に巡らされた水路と空気穴、
そして豊かに植えられた植物のせいなのだと見て取ることが出来た。
礼拝室を抜け、神官たちの控え室も素通りし、さらに奥に入ってゆくと、
数人の人物が待つ部屋へと到達した。
『…衛士長さま。お連れいたしました』
『ご苦労、下がってよし』
『はい』
アッシュは、耳に入り込んで来る古代語のような言葉を、何となく翻訳しながら聞いていた。
伽藺には言葉が全くわからないらしく、相変わらずの不安そうなで周囲を見回している。
そのままカルラは、一礼してからその部屋より、引き下がった。
『衛士長』と呼ばれた男が向き直り、比較的流暢な共通語を使い、夫妻に面会の方法について、
説明した。
武器やそれに類する危険物を預けること。
ベビーカーも許可は出来ないので、赤子二人は親が抱いて入ること。
それから手順と制限時間。
伽藺が、一応何かのためにと忍ばせていた、数枚の符と短刀を渡すと。
衛士長は全身を覆う法衣の中から、かろうじて露出している瞳を少し細めた。
ここに所属する神官は皆そのようなのだが、布地の多い白い法衣に全身を包まれ、目元くらいしか出していない。
この衛士長も顔立ちなどは判別できず、かろうじて体格はそれなりに良さそうだということと、
声から壮年くらいの男性だろうということがわかる程度だ。
注射器やメスや薬品など、アッシュも内ポケットに忍ばせていそうなものだ、と伽藺は思ったが。
彼が何も言わず衛士長も言わないようなので、それについては触れないことにした。
・・・出したら出したで、一体どこにしまっていたのだと思うくらいに、大量だったりして。
危険人物とみなされてひょっとして、面会すらままならなくなるかも知れない。
「それでは夢見様の元に案内する。
そこの水場で手足を清めてから、裸足で奥の部屋に入るが良い」
衛士長がまずは参内の作法の見本を見せる。
清めの際にちらりと見えた足先は、砂漠の民にしては白い方に見えた。
『な・・・何か、お、大仰・・・ですね。
私の母上って、ど、・・・どういう方なんでしょう?』
伽藺がアッシュにエルフ語で小さく耳打ちする。
今までの彼にとって母とは、絵姿の中で微笑んでいる、童女めいた娘でしかなかった。
里にまだ母がいた頃は父の婢女扱いであったから、当時から当主候補であった伽藺は直接に触れたり、
話したりすることは許して貰えなかった。
だから、実際にどういう人格を有しているのか、とか。
そういうことについては、実子の伽藺でさえもこの歳になるまで、わからないままであったのだ。
◆
衛士長に導かれ、奥の部屋に入ると。
心地好い絨毯が敷き詰められ、ほのかに花の香りが流れた。
やがて『ガコン』と部屋全体が揺れる。魔導エレベータのような仕掛けが作動したようだ。
次に扉が開かれると、そこはまるで…童話の世界であった。
白く大きな部屋中に敷き詰められる、異国情緒溢れる絨毯と飾り布。
むせ返るほどに香りを放つ色とりどりの南国の花。
そして・・・。
・・・たったひとつ、ぽつんと置かれている豪華なベッドから、流れて来るのは。
ほのかな・・・、死の、気配・・・。
「カリン・・・? カンチガイ・・・??」
黒髪の少女が少し警戒の構えを解き、目前で屋敷の中に向かって叫んだ大柄な男に、
観察する視線を送った。
その表情や声音から、少なくとも『カリン』に敵対する者ではないと、踏んだからだ。
「カルラは、別ニ利口でハナイ。
単ニ、カルタの知性が、砂トカゲと同等なだけダ、です」
ぽそりと呟くと、言われた当のカルタは愉快そうに手を打ち鳴らし、
「おお! 砂トカゲ美味いな、カルタの好物ダ!!」と上機嫌に喜んでいた。
どうやらこの随分と年下の少女に、馬鹿にされたことには気付いていないらしい。
「お客・・・様? はい、ただいま参ります・・・けれど、・・・何方??」
家事用のサンダルに足を引っ掛けて、ゆっくりとした動きで出てきた伽藺の姿に、
少女たちは揃って目を見開いた。
「・・・カリン?」
「ママ!!」
「え? ・・・はい??」
その言葉に、今度は伽藺が目を丸くする。
「ママ・・・? ・・・隠し子か??」
首を捻るアッシュを小さく睨み、ひとまずカルラに近付こうとしたが、
ぴょいと跳躍して目前に降り立ったカルタに驚いて立ち止まる。
「ひゃっ!?」
「カリンか? ・・・オカシぞ、カルタ、カリンはオニチャンだと聞イタ!」
カルタのその疑問を聞き、アッシュは耐えかねたかのように、笑いを爆発させた。
「はっはっは!」
いきなり顔を覗き込まれるわ、爆笑されるわで話の飲み込めない伽藺は、
困り果てて夫と少女たちの顔を、きょろきょろと眺め回していた。
さすがに助け船を出そうと思ったのか、アッシュが事の推測を伽藺に語った。
「この小娘二人はどうやら、貴様が送った手紙を頼りに、異国からやって来たらしい。
まぁさしづめ両親の遣いとやらではないのか?
先程の反応から察するに貴様の母は、どうやら貴様と瓜二つのようだがな」
それなら直接会ってもみたかったものだと笑う夫の様子に、
未だ目を白黒させながら伽藺は、状況を飲み込もうとしていた。
「え・・・っとつまり、私が書いたお手紙を見た・・・、母上か父上が、
この方たちを・・・代わりに寄越した、と・・・?」
「うむ、そのようだ。しかし説明不足だったようだぞ、かりん。
自身が現在女体化しており、しかも結婚しているということに触れんと、
来訪者どもも惑ってしまうというものだ。
相も変わらず抜けている」
自信が書いた手紙を改めて読んだらしく、ひらひらとさせながらアッシュが説明する。
「いえその説明不足といいますか、どう書けばいいかわからなかった、といいますか」
と、伽藺は困ったように指先を擦り合わせていたが。
流暢にやり取りされる共通語の応酬について来れていないらしい少女たちを見て、
笑い掛けてみた。
「え・・・と『オニチャン』とさっき、私のことを呼んだということは、
貴方たちはひょっとすると私の親族・・・。
・・・姪か妹に当たるのでしょうか?」
「うン! カリンはカルタのオニチャンで、カルラはカルタのイモオトだヨ!!」
そう元気に返すのは長槍の少女。
その背後にいる小柄な少女は、小さく頭を下げるだけだった。
「カルタ・・・と、カルラ・・・。
・・・カルタ様とカルラ様で、宜しいのですね?」
考えてみれば、自分たちの前から両親が姿を消した時、二人はまだ随分と若かった。
それから弟妹が生まれてもおかしくはないというものだ。
「初めまして、私が伽藺ですよ。
・・・今はそちらのアッシュ医師の妻として、伽藺・クインと名乗っております。
都合で女性の姿はしていますが、本来は貴女がたの長兄になるのだと思いますよ」
優しげな声音に、母の面影を見たのだろうか。妹たちの表情が和らいだ。
そこにアッシュが声を掛ける。
「もてなしてやれ。貴様の客は、俺の客でもある」
「あ、は、はいっ」
◆
夫の許可も得たということで、伽藺は二人を屋敷の中に呼び込み、
冷たいフルーツジュースを出した。
カルタは嬉しそうに即刻口を付けるが、カルラはそれよりも先に言葉を紡いだ。
「オマエ様が、カリン、か。
・・・ならユメミ様のモトへ誘ウのハ、オマエ様だけでイイノカ、・・・デス?」
「え? ・・・あー、えっと。
・・・じ、実は今回のお願いの主役は、子供部屋にいる双子たちで」
「子ガ・・・いルのか」
手紙を書いた時点では、まだ詳しいことは書けなかった。
なのでゆっくりと言葉を選びながら、かつてアッシュに拾われ仕えるようになったこと、
いつしか愛し合い結婚して、子を生むために女の人生を選択したこと。
・・・この世界が崩壊しかけていることや、子供たちの行き場を探していることなどを、
ざっと説明した。
「ふぅむ」
神妙な顔で聞き入るカルラとは対照的に、カルタはストローでジュースに息を吹き込み、
ぶくぶくと泡を立てる遊びに夢中になっていた。
次はカルラが説明をする番だった。
たどたどしい言葉ながら伝えた概要は以下のようなものだった。
母であるカテリーンは、『夢見様』と呼ばれる占い師で、今は一族を導く立場にある。
しかし体が弱くあまり長く起きていられないことと、父もその側仕えとして離れられないことから、
転移の魔法を使えるカルラが使者として立つことになった。
戦闘能力に長けるカルタはボディガード役である。
カルタもカルラも日避けのマント取った姿は、伽藺に似ていないといえないことも無かった。
褐色の肌は地から黒い訳ではなく砂漠の熱線に焼かれたものであるという。
カルタは14歳で伽藺とは実に13歳の差があり、カルラに至ってはまだ8歳であるという。
しかし里にはあと二人の娘と、それからカルラよりさらに小さな男子がいるらしい。
「一気に姉妹が増えたようだな。良かったではないか」
そう笑うアッシュに、「一度も会っていないのに、そんな・・・実感が沸きませんよぅ」と、
困り顔で伽藺は答えた。
◆
「付き合わせてしまいますね」
俯く伽藺を一瞥し、アッシュが呟く。
「当然のことだ。俺は貴様の夫なのだからな」
転移魔法というやつは、不安この上ないが・・・と、肩を竦めつつ。
伽藺の選ぶ外出着に袖を通してゆく。
砂漠の気候は、実質的な暑さもさることながら、直射日光の直接的な弊害が恐ろしい。
だからなるべく全身を覆う、しかし着脱の容易な、通気性のよい服を選び。
子供たちにも通気性を重視した服を選び、下着はなるべくまめに変えられるようにと、
少々多目をカバンに詰め込んだ。
「かりん」
最後に、自分の服を見繕い始めた妻に、アッシュは改めて呼び掛けた。
「はい?」
何枚かの、薄手の麻や綿で出来たシャツを見比べていた伽藺は、それに応えてくるりと振り向き。
いつになく思いつめた顔をしている夫を、軽く首をかしげながら見上げた。
「どうか・・・なさいまして?」
「・・・かりん」
それだけを呟いて自室に戻ると、すぐに夫は戻ってきた。
その手には小さな注射器と、今はもう見慣れた、薬品のアンプルを持って。
「貴方・・・、それは・・・」
「姉妹はともかく、両親に誰か分かられんのは複雑だろう。
最期は俺の与えた姿で迎えるとしても、数日ばかり両親に与えられたままの姿に戻ることも、
尊重してやるぞ」
その言葉に、伽藺は少し考え込んでから、静かに頷いた。
女性として生きること、女性として死ぬことを、選んだ。
けれど・・・その決意に、両親は関係ない・・・。
彼らはきっと別れた時の姿のまま、成長した息子が見たいのだろうから。
「そう・・・ですね・・・。
結婚や子供のことについての説明が難しくなりそうですけど、
両親もその方が喜んでくれますよね・・・」
そう告げると、スッと腕を差し出す。
白い肌の中に細い針が抵抗なく侵入し、血管の流れの中に薬剤を乗せた。
それから少しすると、伽藺の全身が軋み、骨の形が変わって行った。
見た目は随分と痛そうであったり苦しそうに見えるのだが、この薬剤にもう慣れ親しんだ身としては、
たいした苦痛もなくその効果を受けることが出来た。
「・・・うーん。
久し振りに男の自分を見ると、なんだか不思議な気分になります。
こっちの方が本来の姿なのにね」
鏡台を覗き込んで丸みを失った頬を撫でていると。
「随分久々に見た気がするな。俺の見初めた最初の姿だ、・・・可愛いぞ」
と、顎を持ち上げられて、ねっとりと深いキスを受けた。
「ん・・・ぁ、・・・んっ、・・・ぷ、はぁ・・・」
伽藺はキスに酔い、ぼうっとした顔で夫を眺めていたが、
人を待たせていたことを思い出して体を離した。
「ふふ、確かにこの高さで貴方を見るのは、久し振りかも。
長いキスをしても、首が痛くならなくて、良いですね」
頭一つ分以上もあった身長差は、今は10cmと少々になり。
少し背伸びでもすればやすやすと、目線を合わせることも出来た。
改めてひとつ、今度はごく触れるだけの、軽いバード・キスを交わして。
「行きましょうか。
カルタ様たちが準備を整えて、待っているらしいですから」
◆
「来たナ! 待ってたゾ!!」
大きく手を振るカルタの背後に、砂浜に魔法陣を描いているカルラが見える。
ゆっくりと近付く二人の男に目を丸めて、やがて見慣れない男の方が伽藺だと気付いて、
「ほーぅ!」と驚きの声をあげた。
「確かにオニチャンだな。でも・・・」
ほんの少し、落胆気味に。
「アンマリ強そクないナ」
「あ、あはは・・・、すみません・・・」
伽藺は苦笑交じりに謝るしかなく。
「くっく。見た目よりはまだ強いはずだがな。
もっともどんなに強かろうが、かりんは俺だけには勝てんが」
アッシュの呟きに、おおーっと瞳を輝かせる、カルタ。
「見た目ヨリは強イのかー。
な、アッシュ。カリンは強イカ? 砂トカゲより強イ??」
「さあな。砂トカゲとやらよりは幾許か、強いのではないか」
「そもそも砂トカゲというものが、何なのかわかりませんので・・・;」
物を図る単位の殆どがどうやら『砂トカゲ』であるらしい少女に構っている間に、
カルタは複雑な図形を描き終わったらしい。
「カリン? なのカ??」と伽藺の存在を確認すると、
一行を砂浜に綺麗に書かれた陣の上に、線を踏んで消さないようにと注意しながら、
案内した。
「むう。
こんな絵で人体転送が出来るなど、ふざけるにも程がある・・・」
『魔法』という概念が苦手なアッシュは、苦い顔でぶつぶつ言いながらも、
大人しく言われる通りの場所へ陣取る。
『怪しげなもの』は近寄らないことが一番の防御だが、
どうしても近付かざるを得ないときは、なるべく専門家の助言を守った方がいい。
アナーキーな人物ではあるが、さすがに自身と家族の安全が掛かっている時にまで、
持論を貫くほど無謀でも無かった。
「さて、何処へ連れられるのやら」
魔法陣に全員を乗せ終わるとカルラは、何処か聞き覚えのある言葉で呪文を唱え始めた。
目を瞑ったことで集中したアッシュはふと、すっかりと忘れていたとある事を思い出す。
この娘達が時折二人で話している母国語。
何処かで聞き覚えのある耳触りだと思ったら、昔、歴史の知識として教育係に叩き込まれた、
古オールド語に似ているのではないだろうか。
確か古代、未だネバーランド大陸よりもオールド大陸の方が、文化が先んじていた時代。
オールドの民は自らを神の使いと称して、ネバーランドの民に接したという。
医学校を受験する時には試験のために覚えたが、その後使うこともなく忘れていた知識。
ああそうだ。
思い出した、確かエディンと言えば半裸とか呼ばれている神が、封印されていた土地だった筈。
古代に若き神と共に封じられ、そのまま幾千年を閉鎖社会で過ごした、犠牲の一族。
まぁ本人らはその犠牲さえも美化して、未だに神の血族だか何だかと自らを、
称しているのだろうが。
アースがエディンに封じられていたことに関係してか、アース教の神殿で使われる神聖語もまた、
同じ語族に属しているような言葉だった。
アッシュ自身は宗教に興味はないが、冠婚葬祭などでたまに、儀式に参加することはあった。
いつも隣でおっとりと佇んでいる、とろくて愛嬌があって少し間の抜けた妻が、
歴史書にも綴られる古代人の末裔だと思うと、あまりにも似合わなくて何だか面白くなる。
そんなことを考えていたら、風の匂いがふと変わった。
むせ返るほどの暑さだが全く湿っぽさを感じない。
目を開けてみると、見たこともない雰囲気の、真白い街並み。
「ツイタゾ、デス。ユメミ様の神殿は、そこにソビエル白い建物ダ、デス」
示された先には一際大きな、やはり白い壁が眩しい太陽に照らされた、仰々しい建物があった。
外見年齢は20歳ほど、実年齢は20代後半。
夫との間に男女の双子あり。
性格はおっとり。
行動は良く言えば優雅、悪く言えばどんくさい。
少し急ぐとすぐ転ぶ。
ネバーランド・ナハリ国の軍務省にも補佐官として所属している。
ユエルティートという名の少女を、小鳥と思い込んでペットとして飼っていたことがあり、
人の姿を現した今でも、娘代わりとして可愛がっている。
義兄にはウィルフェア氏とティーラ氏。氏の家族や同居人諸氏とも懇意で、何かとお世話になっている。
お茶が大好きでお茶菓子も好き。
甘党で大食漢。カロリーコントロールを言い渡されるレベル。